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農文協トップ主張 1998年9月号

バブルの後の再建は
江戸時代の発想に学ぼう

――景気回復待望論を排す

目次
◆不況の性質が根本的に変わった
◆大開発の時代とその破綻――江戸前期の日本の「バブル」
◆地域への回帰――国内資源の総点検に基づく適地適産の振興
◆特産を名産に――地域個性の発見
◆成長経済から成熟社会へ
◆減税で不況は克服できない――農書の時代の内需拡大に学ぶ

◆不況の性質が根本的に変わった

 日本経済は今、平成不況の長いトンネルからなかなか脱出できないでいる。政府はバブル崩壊後の1992年以降、6次にわたる総合経済対策を実施、総額66兆円にものぼる景気刺激策を施した。公定歩合は史上最低を続け、銀行の不良債権処理等に30兆円も準備、果ては最後のカンフル剤とばかりに一時的な特別減税を恒久減税に切り替えることまで表明した。にもかかわらず株価は低迷、貸し渋り倒産は続き、失業率は増大、消費はさっぱり上向かない。カネがないわけではない。日本の個人(非法人)金融資産は平均1000万円強、じつに1200兆円もの巨額にのぼるというのに、である。笛吹けど踊らずとはまさにこのことを言うのだろうか。80年代の終り頃は公定歩合2.5%でバブルが発生したのに、今は0.5%でデフレの状況だ。
 これは明らかに従来の不況とは質を異にしていることを示している。“打てば響く”不況から“笛吹けど踊らず”の不況へ、好→不況が循環的に訪れた時代から、バブルの崩壊を機に新しい質の暮らしと経済、社会構造への転換を求める時代へ、時代は明確に画期を迎えた。
 歴史を振り返ってみれば、日本には似たような時代があった。江戸時代・元禄期の繁栄と、その高度成長終焉後の享保以降の時代である。そのとき日本人はどう対処したのか。江戸時代からの贈りものとして現代の我々に伝えられている「日本農書全集」(農文協刊)によって、新しい時代の創り方、その発想と方向を探ってみよう。

◆大開発の時代とその破綻
――江戸前期の日本の「バブル」

 高度経済成長で沸いた日本の繁栄あるいは狂乱ぶりを称して「昭和元禄」といわれたことがあった。確かに元禄時代と高度成長期の昭和は、ともに外延的発展に頼って繁栄を遂げたという点で共通している。その無理がはじけて享保「不況」と平成不況を迎えたのである。
 江戸時代といえば1603年から1868年にいたる約270年間。元禄時代は前半のおよそ3分の1の時点にあたる1688年から1703年まで。その終わりの1703年は江戸開幕からちょうど100年目のときであった。
 この100年間は日本の大開発時代といわれている。北上川・利根川・大和川・信濃川・筑後川など、主要な大河川はこの時代に改修されたり流路の変更が行なわれたりしている。巨大な用水・土木工事ラッシュが続き、1600年に200万町歩だった農地面積は、1700年には280万町歩強と約四割増え、室町中期の100万町歩弱に比べると約3倍になった。それは「もしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治以降のわが国の国土状況はないといえるほどの」(大石慎三郎『江戸時代』中央公論社)日本史上類例のない急激かつ巨大な開発だった。農地の拡大はそのまま人口扶養力の上昇につながり、1600年に1200万人だった人口が1700年には約2800万人と、2倍を優に超える“人口爆発”となった(表)。

 
表 江戸時代の人口、耕地、石高などの推移(実数)


時期(年)
(1)
人工

(万人)
(2)
耕地

(千町)
(3)
実収石高

(千石)
(4)
R/N

(反/人)
(5)
Y/N

(石/人)
(6)
Y/R

(石/反)
1600 1,200 2,065 19,731 1.721 1.644 0.955
1650 1,718 2,354 23,133 1.370 1.346 0.983
1700 2,769 2,841 30,630 1.026 1.106 1.078
1720 3,128 2,927 32,034 0.936 1.024 1.094
1730 3,208 2,971 32,736 0.926 1.020 1.102
1750 3,110 2,991 34,140 0.962 1.098 1.141
1800 3,065 3,032 37,650 0.989 1.228 1.242
1850 3,228 3,170 41,160 0.982 1.275 1.298
1872 3,311 3,234 46,812 0.977 1.414 1.447
速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17〜18世紀』岩波書店、44頁より引用。
注は割愛させていただいた


 こうした開発政策のもと農地は増大し、農具の発達や農民の努力によって農業生産は高まり、その余剰に支えられて都市が繁栄した。浮世絵がはやり、西鶴がファンを魅了した元禄文化全盛の時代と相成った。
 しかし、過剰開発に弊害はすぐついてまわった。年貢を3〜7年タダにしての新田開発への誘導は、既存の田畑に手がまわらずに荒廃を招き、他方、草木を根こそぎ掘り取っての山川の開発は、一夜にして町や村を全滅させるような大洪水を全国各地で頻発させるようになった。“本田畑の荒廃”と“洪水の時代”の到来である。状況は悪化し、開発にブレーキがかかり始めた。表の(2)の欄に見るとおり1600年代後半すなわち元禄期で新田開発の勢いは峠を越え、かつ表中(5)に見るとおり、一人当たり石高は元禄期以降じわじわと減りつづけ、享保期(1716〜36年)には一石割れ寸前にまで落ち込んだ。人口もこの時期をピークに以降漸減傾向になってしまった。こうして日本は開発主導の高度成長終焉の時代を迎えたのである。

◆地域への回帰
――国内資源の総点検に基づく適地適産の振興

 高度成長の終焉に直面したポスト元禄=享保の日本がとった路線は、決して従来の延長上に好況の再来を期すようなものではなかった。それは一口でいえば外延的拡大に頼る以前からあった既存の生産基盤=本田畑の復興であり、村々に賦存する地域資源を活性化させ、地域振興をはかることであった。
 すでに幕府は、元禄に先立つ20年前「諸国山川掟」というお達しを出し、行き過ぎた開発の奨励を反省し、既存の田畑をていねいに耕作する方向に農政を転換した(1666年)。開発至上主義から精耕細作、小力を生かした園地的精農主義農政への大転換をはかったのである。
 さらに享保の時代、吉宗は国内資源の総点検に基づく適地適産の振興にのりだした。
 享保19(1734)年、幕府は全国の大名領、幕府領、寺社領に対して『産物帳』の提出を命じた。翌年から元文4(1739)年にかけて全国から江戸へ『産物帳』が届けられた。これは享保・元文の産物書上といわれ、村役人が村内の産物をつぶさに調べて報告したものであり、全国津々浦々にわたって空前のスケールで行なわれた官民一体の国内資源調査であった。ここでいう産物とは動物・植物・鉱物のすべてをさしており、農作物はもちろん野生生物から天然の鉱石までを含んでいる。
 そもそも日本の国は、南北に長く、かつそのまん中を山脈が走り、その西側と東側では気候に大きな違いがあり、多くの山や川で地域が区切られている。多様な地形や気候は「地域」を生み、各地域ごとに多様な「地域資源」を生み出した。日本列島は「地域列島」であり、「地域資源列島」なのである。その「地域」を無視した大開発の時代が終わり、外延的拡大に前進の道を見出せなくなったとき、このような地域資源の悉皆調査を行ない、それを活用することによって新しい豊かさを実現せんとした吉宗の産業政策は的を射ていたといえよう。
「農書の時代」の到来
 以上のような「山川掟」や「物産調べ」による「地域」への着眼をも背景に、元禄から享保の時代以降、各地に農書が続々と著されていった。荒廃した田畑を救い、地域の特質に応じた農業・農村に建て直そうとの思いで書かれたものである。その思いは、地域の資源を守ることにまず向けられた。
 江戸時代、地域の資源を管理し、守ってきたのは村である。たとえば入会地の草は刈敷として重要な肥料源であり、茅は屋根を葺く材料として暮らしに欠かせないものであったので、その利用は厳しく規制されていた。山の口開け(解禁日)までは何人たりとも勝手に利用することができなかった。
 「落ち葉さらいは、……解禁日を決めてさらい始めること。解禁の触れが出ないうちにさらう者がいたならば、山の持ち主であっても罰金を取り立て、そのうえ三十日間はさらうことを禁じること」(日本農書全集第63巻『農村振興一「儀定書」』、傍点引用者)。そして「右の条々は問屋・名主・年寄・組頭・百姓代・立会長百姓が集まって相談のうえ、仕法定書として記したものである。この箇条に少しも違背することなく必ず実行し、村民に守らせること」とし、主だった者たちが連署して、その実行を迫っている。地域の資源はこうしたわが地域の秩序と繁栄を願う人々の確固たる意志によって支えられていたのである。
 村々が守り続けてきた資源の調査のうえに日本列島では適地適産に基づく「特産物列島」が誕生することになる。最上の紅花、阿波の藍、紀州の蜜柑、松前の昆布、尾張の瀬戸焼、京都の羽二重、越後の縮、備後の畳表、山城の茶、薩摩の黒砂糖、日向の椎茸といった名産地が出現した(同全集『特産』一、二、三、四など)。これらの名産には一次産品・原材料だけでなく、加工して付加価値を高めたものが数多く含まれている(同『農産加工』一、二、三など)。
 これらの名産は今日まで受け継がれているものが多い。その結果、輸入に頼っていた木綿・生糸・藍・煙草・砂糖・朝鮮人参等、暮らしに必要な物産はことごとく国内自給を達成した。ちなみに特産物の国産化にともなって輸入が減少し、元禄時代まで大幅赤字だった国の貿易収支が黒字に転化したのも、この「農書の時代」のことであった。

◆特産を名産に
――地域個性の発見

 しかし、各地の特産物は、地域資源の調査をやったからといって自動的に名産になったのではない。確固とした経営・販売戦略があってはじめて名産になったのである。
 「蜜柑、土地ニ応シ風味無比類、色・香・菓之形チ他国ニ優レ候ニ付、次第ニ村々江植広ケ申候」(同全集第46巻『特産一「紀州蜜柑伝来記」』)。
 およそ特産物が名産としての地歩を固めようと思えば、まずもって「土地ニ応シ」た確かな品質と、他にはない「比類」無き特色をもっていなければならない。地域の個性にあった作目、量的なナンバーワンではなく質的なオンリーワンを発見、育てることによって、紀州はそのみかんと地域を売り出すことに成功したのである。
 販売も業者まかせにはしなかった。大消費地江戸には遠路にもかかわらず「売り子」と呼ばれる生産者代表を自ら派遣して問屋と折衝に当たり、仲買いが乱立乱売して値崩れを起こしたときは、決然として「仲買株を取り上げる証文を出させ」た。出荷に当たっては、事前に生産者組合による粗悪品をチェック。輸送に当たっては途中の腐敗や海難リスクを分散させるために同じ「蜜柑組」のみかんを船荷せず6つの違う組のみかんを積み合わせて万一に備え、生産者間の公平を期した。――
 ここには「比類無き」地域個性の発見と、それを生かす生産者自らの創意と工夫が、特産を名産に育て上げていった様子が活き活きと描かれている。江戸時代最大のジャーナリストにして物産、地域振興コーディネーターでもあった大蔵永常は、次のように述べている。
 「初めから領主の御威光で指導し命令する方法では、かえって受け入れられず、なかなか普及しにくいものである。国の趣きに熟達した人に一任する形で特産物の普及に努めれば、ついには国全体にひろまって、農家の利益となるに違いない。さらに領主が、その品物の販路がよく開けるようにもっぱらお世話くださるならば、国の特産物ともなり、御利益ともなるであろう」(第十四巻『広益国産考』)。
 「国の利益になると思えば、商売のように、その年に始めて、もうその翌年には利益があがるように思う人もあるが、まず十年間は継続してやってみなければならない。そうすれば、莫大な利益をあげることができよう」(同巻)。
 特産で村を振興するには、まず、その地域の「趣き」を熟知している人たちの裁量を発揮させることが第一で、官はそのサポーター役に徹すべきである。そして地域の振興には百年の計とまでは言わぬが、せめて10年単位の長期計画をもって臨むべきであろう。
 永常はこのように述べ、官主導の開発経済と目先の投資効率を短兵急に求める態度を厳しく戒めた。バブルが崩壊したあとも相も変わらぬハコもの中心の土建事業にカネをつぎ込み、地元民からもありがた迷惑な顔をされている昨今の公共事業とは段違いの態度である。そして、きょう売れなければ明日は撤去という「商ひ」、ポスレジシステムによって短命化させられる商品とそのうたかたのごとき商いのありようを痛烈に批判しているのである。
 「土地ニ応シ」、「比類」無い産物を、あせらず「次第ニ」「植広ケ」ていった農書の世界、その呼吸と技は決して過去の遺物ではない。

◆成長経済から成熟社会へ

 日本農書全集に収録されているだけでも300点を超える農書の数々。地域個性の発見、村民の裁量に依拠した10年、20年の視野に立った地域振興を訴えた農書の時代の到来によって、日本列島は開発バブルの荒廃から個性豊かな特産物列島に見事に立ち直っていった。
 先に表で見たように、1730年、享保末に人口は絶対数でピークを打ち、農地の伸びはそれに先立って大幅にスローダウンしていた。それに伴って一人当たり石高も一石割れ寸前まで落ち込んだ。
 にもかかわらず同じこの表により、実収石高(表の(3))はこの間一貫して増えつづけ、反収(表の(6))も緩やかながら上昇をつづけている。そして農地人口比(4)も1730年で底打ちして以後は微増のすう勢となった。その結果、一人当たり石高も1730年以降上昇に転じた(宮本又郎氏の前掲表の出典による)。できすぎた話のように思われるかもしれないが、この「転換」が農書の登場、普及と時を同じくしているところがおもしろい。
 大事なことはこの石高や反収、一人当たり石高の増加が、米だけによるものではなかったことである。農書の普及によりこの時期、中晩稲の品種開発がおおいに進み、米じたいの収量向上に寄与したにとどまらず、二毛作の可能性を大きく開いた。作目の多様化は進み、主穀のほか野菜や紅花、綿、菜種、藍などの工芸作物が取り入れられ、この中から数々の名産が生まれ、農産加工業も花開いたのは、先に見たとおりである。
 そして、右の実収石高には農産加工業稼得を含む非農産は含まれていないので、実際の一人当たりの所得はより高かっただろうと、宮本氏は述べている。
 こうして享保期以降の江戸中期の社会は、人口の漸減、農地増の大幅ダウンといった外見的な停滞を示したが、「利用可能な資源の外延的拡大に助けられた江戸前期に対して、江戸中期の経済は賦存された所与の資源を高度に利用することによって、成長の活路を見いだした」(宮本前掲書)のであった。
 外延的拡大の成長から、賦存された資源に依存した経済成長とは、言い換えればパイの大きさを追い求める経済からパイの中身に内在する価値を発見、加工、創造して豊かさを創造する方向である。それは、成長社会から成熟社会への転換でもあった。

◆減税で不況は克服できない
――農書の時代の内需拡大に学ぶ

 明治以降一世紀、昭和元禄に象徴された成長路線は、その行き詰まりが誰の目にも明らかになった。それは、物的な豊かさの実現と同時に得体の知れぬ空虚さ、文化の希薄感を人びとにもたらした。大量生産・大量消費は一次的な欠乏を埋めていくマスの文化であったからだ。消費不況克服のために減税論議が盛んだが、いま必要なのはパイの大きさを国民に振るまうことではない。「食料なら何でもよいというものではない。食文化への配慮がいる。食物の絶対量ではなく、利用する人間の主体的条件が問題なのである」。人間は「物をどのように利用するかを決める基準」を「国民、民族、個人それぞれが持」ち、「物の利用の仕方が量的にも質的にも異なっている」「それは人間の生活水準を一人当たりのGNPのような量に還元して比較することへの警告である」(川勝平太『日本文明と近代西洋』)。欠乏を埋めていくマスの文化から、個性的なライフスタイルを選択していくインディビジュアルな文化をいかに創造できるかが問われている。外に源を求める成長経済から、地域個性の発見・発揚に基づく成熟社会へ。江戸時代中期、私たちの先輩は名産、産直、農産加工の振興等により、それを見事にやってのけた。全七二巻に及ぶ日本農書全集に書きしるされた英知と苦闘は、ぜひこれを現代に生かして欲しいと呼びかけている。
(農文協論説委員会)


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