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農文協トップ主張 2003年4月号

 「地域の食卓」の多様な道
―商品化以前の食の力を生かす

目次
◆にぎわう地域の食卓―「なにもない」はずのむらで
◆見るから食べるへ、食べるから体験へ
◆「地域の食卓」が呼び起こす食の力、人の力
◆お金がなくても楽しく暮らしていける
◆ともに食べ、ともに楽しむ「地域の食卓」
◆都市主導の一本道ではなく、農村主導の多様な道へ

 

 この2月、宮城県で開かれた食にかんする2つの催しに参加した。ひとつは、奥羽山脈の山ふところ、加美郡宮崎町で9日に開かれた「食の博物館・冬編」。もうひとつは、南三陸の海と川が出会う桃生郡北上町で12日に開かれた「みやぎ食育の里づくり・正月料理を味わう会」である。

 「地域活性化」といえば、かつては企業誘致、現在では特産品開発がふつう。しかしこのふたつのむらで出会ったのは、「商品化以前」の食の力を生かした「地域の食卓」がもたらす元気であった。

にぎわう地域の食卓―「なにもない」はずのむらで

 宮崎町「食の博物館」は、1999年から毎年11月3日に町の体育館で開いてきた年一回の「食の文化祭」を、昨年から屋外の田んぼや畑にも舞台を広げ、春夏秋冬の年四回開催するようになったもの。観光とは無縁だったこのむらに、年間で町内人口の五倍の人が訪れるようになり、今回の「冬編」にも、仙台市や東京だけでなく、フェリーや夜行バスを乗り継ぎ、遠く沖縄、福岡、滋賀、三重から参加した人びともいた。

 宮崎町は人口6300人、1500世帯の山形県境に接する「どんづまり」のむら。「食の文化祭」以前は、県内でも町名すら知らない人もいる無名のむらだった。その「なにもない」はずのむらに、ささやかな変化が起きたのは98年。そのきっかけは商工会が補助事業で、いわゆる「特産品開発事業」を導入したことだった。開発委員会でいったん候補にあがった「特産品」は「真空パックの切り餅」。だが、すでに週末土曜日曜の2日間、町の施設を借りて「つきたて餅」の店を営業していた女性グループから、「切り餅もいいけれど、餅はやっぱりつきたてがおいしい。それを特産品にすることはできないかしら」との提案があった。中山間地の宮崎町までは、仙台市から車で1時間半ほどかかり、わざわざ宮崎町まで来る客は少ないとはいえ、つきたて餅のおいしさは口コミで伝わり、食べに来る客もしだいにふえていた。

 しかし委員会は、「おいしさはわかるが、外に出せなければ商品ではない」と、いったんはこの提案を切り捨てかけた。そのとき、この委員会にアドバイザーとして参加していた仙台市在住の民俗研究家・結城登美雄さんが、「おいしさはわかる、と言うけれど、女性たちの店でつきたての餅を食べた人がどのくらいいますか?」と問いかけた。30人近いメンバーのうち、誰ひとり実際に食べたことのある委員はいなかった。

 そのことがきっかけとなって、宮崎町は独自の道を歩みはじめた。外に出すこと、つまり「商品化」することによって失われてしまうおいしさがあるとすれば、外に出せないおいしいものはどれだけあるか? 1500世帯の家庭内で食べられている、わが家の自慢料理やふだん着の料理を一堂に集めて展示してみようということになった。それが「食の文化祭」である。

見るから食べるへ、食べるから体験へ

 1500世帯のむらで、1年目の99年には800品の料理が集まった。バレーコートが3面とれる体育館に、ずらりと料理が並んださまは圧巻だった。

 「キンピラゴボウ、煮豆、焼きなす、梅干し、山菜漬など、それをみればこの町の人びとの食卓がみえてくる。むろん菊なめこ、かきもち、ぼたもち、柿なますなどの伝統料理も並ぶ。それだけではない。マドレーヌ、パウンドケーキ、ババロア、ドリア、スパゲッティなどの洋風料理やギョウザ、キムチ、中華スープなどのエスニック料理も数多く出品される。和洋中、百花繚乱の趣きである。しかし、それが楽しい。ともすれば私たちは東北の農山村の食卓を勝手に田舎料理や郷土料理などのイメージで塗り込めてしまう。だが実際は大きく異なり、展示されたものは、現代日本の良質な食卓の現在が集合しているといえる。良質な、という意味は商品化された料理が少ないということである」(結城登美雄「わがスローフード――東北・食の地元学」 「増刊現代農業」2002年11月号『スローフードな日本』)。

 2年目には1100品が集まり、人口6300人のむらに、町内外から1万人もの人びとが訪れた。保健所の指導で、「陳列された料理は食べないように」というアナウンスが会場に繰り返し流されているにもかかわらず、訪れた人はひそかにつま楊枝や箸をかくし持ち、少しずつ「味見」を繰り返す。そのため数時間のうちすっかり料理の原型はなくなってしまう。しかし「味見」される方も悪い気はしない。また家から料理を持ってきて陳列する。

 3年目には「見るだけでは物足りない。味わってこそ食文化」の声に応え、1万1000食、28種類の試食コーナーが用意され、長蛇の列ができた。

 そして4年目の昨年から「四季を通して味わってこそ宮崎町の食文化」と、春夏秋冬の各1回開催となり、その食材が採れる山、川、田畑にも舞台を広げた。それは、食を育む風土や自然、生産・生活空間全体を味わう「食のエコミュージアム」であり、案内し、もてなすのは山菜名人や漬物名人からなる「食の学芸員」50人である。

 5月の「春編」では、家庭料理の展示のほかに、山菜取り、川魚の炭火焼き、「結い」による田植えの完了を祝う「植え上げ膳」を茅葺き屋根の民家で食べるなど、七つのオプションコースも用意された。7月の「夏編」では野菜のもぎ取り体験、11月の「秋編」では春編、夏編のときに種まき・定植体験をした秋野菜の収穫体験などが行なわれ、この2月の「冬編」では、雪を生かしたかまくらやイグルーの中で豆腐料理や餅料理を味わうコースが参加者をおおいに楽しませた。

「地域の食卓」が呼び起こす食の力、人の力

 女性たちの「持ち出せない、商品化以前のおいしさを」との思いから始まった食の文化祭、食の博物館には、その回を重ねるごとに、新しい担い手、人の力が加わってきた。

 宮崎英明さんは、一昨年まで仙台市内でデザイン事務所を開いていた32歳の青年。「食の文化祭」の企画や記念誌の編集にかかわるうち、知らなかった故郷の人びとの農の営みや思いに触れ、昨年からUターンしてデザインの仕事を続けながら実家の農業を手伝い、「食の博物館」実行委員もつとめている。

 春編までは「食の文化祭はお年寄りや母親たちのもの」と遠巻きに見ていた宮崎さんの同級生たち十数名が、夏編では、「自分たちに伝統食はつくれないけれど、できることからはじめよう」と川原で「バーベキュー」や「鮎の炭火焼」を提供した。その同級生たちは、集まった3000種近い料理のレシピを生かす農村レストランをつくれないか、年々高齢化するわが町の食の担い手が抱える課題に俺たちが出来ることはないか、広がる耕作放棄地を協働で解決する「農のワークシェアリング」をやろうではないか、さらには仙台圏にテナントショップは開けないかと、「宮崎町・おいしさ開発委員会」というサポーターチームを組織しはじめた。

 また、結城さんが非常勤講師をつとめる宮城教育大学の学生たち十数名も、高齢農家の自給によってかろうじて農地がまもられているのを見て、「遊休地でも野菜をつくってもらい、自分たちの車で仙台まで運んで売れば、耕作放棄を防げるのではないか」と、「学生八百屋」を計画中である。

 そして、昨年末、商工会と食の文化祭実行委員会は「第2回地域に根ざした食生活推進コンクール」(提唱・農水省、事務局・農文協)で最高賞の農水大臣賞を受賞し、その記念をかねて開かれた冬編のパーティには、浅野史郎知事も参加。町内外の1000人が参加したパーティのテーブルは、青物の少ない時期にもかかわらず、住民200人以上が持ち寄った塩蔵山菜・野菜の煮付け、アイガモ鍋、清流に戻ってきたカジカの串焼きなど、さまざまな「とりまわし料理」が飾った。

 「とりまわし」とは、宮崎町28の行政区の倍近くの「講」や「結い」に深く結びついた料理。近代以前から冠婚葬祭や家の新築の際の山の木の伐採や運搬、建前などで集落の暮らしを支え合ってきた講や結いの相互扶助の組織がいまなお健在のこのむらでは、年2回の共同山の植林や手入れを欠かさず、道路掃除、どぶさらい、ごみ収集、交通安全などの労力奉仕が日常的な地域自治の基盤として機能している。そうした講や結いの労働のあとに必ず持ち寄って楽しむ一家庭一品の大皿が「とりまわし」。女性たちは山菜、野菜、きのこなどをその日の「地域の食卓」のための食材として、ふだんから保存しているのである。

 「商品化以前のおいしさ」を見つめる女性たちのこだわりからはじまった宮崎町の「食の文化祭・博物館」は、食と農を近づけ、「なにもない」と思われていた地域の食の力、自然の力、歴史の力、そして人の力と、それらを「ともに楽しむ力」を引き出した。

お金がなくても楽しく暮らしていける

 2月12日に開かれた「北上町の正月料理を味わう会」。そのしめくくりに、今野千恵子さん(74歳)は、昨年7月の「観音講の料理を味わう会」での話をアンコールされて、町内3校、約40名の小学生にこう語りかけた。

 「観音講っていうのはね、観音さまに子どもが授かりますように、無事安産できますようにって、お母さん方が観音さまにお祈りしたのね。子どもを産むってことは、たいへんなことなんです。昔は棺桶(がんおけ)に片足突っ込んで、ひょっとしら死んでしまうかもしれないって……。だからみんな、無事に生まれて来たときは、お父さんやお母さんだけでなく、むら中の人が、よかったねえって、喜んでくれたのね。みんなの思いがあるから、だからいのちを大事にしてほしいの。みんなのいのちをね。みんなの名前もね、お父さんやお母さんや、おじいさん、おばあさんが、じょうぶで幸せに生きてほしいっていう気持ちでつけたの。いのちに名前をつけたんです。『命名』というのは『いのちに名前をつけること』なの。赤ちゃんが生まれると、命名誰々って書いた紙を、しばらーく神棚に張っておくでしょう。そういう思いがあるから、みんなもね、自分のいのちを大事にしてほしいと思います」

 「観音講の料理を味わう会」も「正月料理を味わう会」も、「宮城ならではの豊かな食文化を通して地域ぐるみで健やかに子どもを育み、新たな生活文化の醸成を図る」という「みやぎ食育の里づくり」事業の一環として開かれたもの。

 北上町は大河・北上川と海とが出会う人口4000人、1200世帯の河口のむらだが、昨年、「食育の里」のモデル市町村に指定されたとき、県庁内にも、また地元住民のあいだでも、それをいぶかしむ声があがったという。なぜなら北上町も宮崎町同様、「なにもない」むらだと思われていたからである。

 たしかに、北上町は産物として知られているのはシジミとワカメくらいである。だが、商品として外に出しているものが少ないからといって、子どもたちに伝えるべき食文化、生活文化をもたないむらなのか? ここでもその課題に立ち向かったのは、今野さんら食生活改善推進員、相川地区婦人部、釣石会(神社への奉仕活動グループ)など、40〜70代の13人の女性たちであった。

 女性たちは、この事業にアドバイザーとしてかかわっている結城さんの指導を受けながら、(1)1年間に自家生産している食材にはどんなものがあるか(2)それはいつごろ種をまき、いつごろ収穫するか(3)それら収穫した食材はどんな調理、料理、加工保存をしているかを、1カ月近くをかけて自ら調べた。その結果、わずか13人の女性たちが自給している食材の合計は、なんと300余種。庭先の畑を中心に農産物約100種。里山の山菜約40種。きのこ30種。果実と木の実30種。海の魚介類と海草約100種。北上川の淡水魚介類約10種。「なにもない」と思われていた北上町は、自給の畑と目の前の北上川と三陸リアスの海のめぐみ豊かな食材の宝庫だった。

 食材だけではない。女性たちが身につけている技と知恵も自ら調べた。塩による味つけだけでもひと塩、塩じめ、ふり塩、当て塩、塩引きなど11種。漬物は一夜漬け、浅漬け、酢漬けなど九種。煮方は煮しめ、煮こみ、煮びたし、含め煮、おろし煮など19種。切り方22種、分離・混合32種……。300余種の食材と、これらの技・知恵が掛け合わされて生まれる料理はどれほどになるのか。

 完成したこれらの食材と技のリストをながめながら、三十数年前に北上川上流から嫁いで来た佐々木としえさんが若い日をふりかえってこう語った。

 「見知らぬこの町に嫁にきて、まず思ったことは、ここは安心して子育てができるということ。フノリ、マツモ、イワノリ、ヒジキ、ワカメ、テングサ、ウニ、アワビ……。田や畑や山からだけではなく、海からも四季折々にごちそうがやってくる。ここは金がなくても楽しく暮らしていけるところだと思った」

ともに食べ、ともに楽しむ「地域の食卓」

 食の安心はゆとりを生み、ゆとりは楽しみと遊びをもたらす。年に2回の観音講は、女性たちの子宝や安産の願い、祈りであるとともに、貴重な息抜き、楽しい語らいの時間でもあった。観音講だけではない。北上町十三浜では、正月7日まで船霊さまを祀り、漁を休む。それ以降も休むことの多い正月の食卓で食べつなぐのは「掛け魚」。

 「今はやっているおうちは少なくなったけど、お正月のじゅんびのひとつに『かけざかな』というものがありました。これはお正月に食べるお魚なんかを棒にかけておくもの。こうしておけば、お正月には、その食べるさかなを食べる分だけ切ってつかえます。おうちによっては魚だけではなく、コンブやなっとう、しみどうふなど、お正月に食べるものをいろいろ棒につるしておきました。そしてお正月が終わる頃には、みんな食べてしまっていたそうです。お正月の食べものをはじめからじゅんびしておくための、むかしの人の知恵。それが『かけざかな』なんだね」(結城さんの子息、健太郎さんによる『北上町・たべもの読本 正月料理編』より。原文漢字はルビつき)。江戸時代後期50年ちかくを東北、蝦夷地の旅に生きた菅江真澄が『民俗図絵』に残した風習が、北上町ではいまも生きて子どもたちに伝えられているのである。

 古川貞雄氏の『村の遊び日――休日と若者組の社会史』(平凡社選書)によれば、江戸時代のむらの休日は村が定め、その休日には神事祭礼の「遊び日」と労働休息の「休み日」の二種があったという。その遊び日を平日と明確に区別するのは第一に「平日にはみられない特別の食事」であり、第二に「平日には許されない遊び」であった。

 特別の食事の代表格は「餅」。前述の宮崎町「食の博物館」春編の「植え上げ膳」では、食べきれないほどの餅が供されたが、それもそのはず、江戸時代の仙台藩には年間80日もの遊び日があり、昭和30年頃のNHKの郷土資料調査でも、宮崎町を含む大崎・栗原地方では年間70日も餅を食べる日があったという。江戸時代農民は村固有の休日を定め、ともに休み、ともに祭り、ともに食べ、ともに楽しむ達人であり、休みも遊興も「自給」していたのである。そこにもまた宮崎町の「食の文化祭・博物館」や、北上町の「食育の里」につながる「地域の食卓」があった。

都市主導の一本道ではなく、農村主導の多様な道へ

 今、日本の食卓の構成はGDPベースで「第一の食卓」=家庭の食材購入20%で、「第二の食卓」=外食、加工食品が80%を占めている。食の八割を「商品」として企業に求めた結果、企業は安価な食材を他国に求めて食と農の距離は大きく離れた。その結果が渦巻く食への不安と不信。

 そうしたなかで、宮崎町の「食の文化祭・博物館」は、食と農を近づけ、「なにもない」と思われていた地域の食の力、自然の力、歴史の力、そして人の力と、それらを「ともに楽しむ力」を引き出した。北上町の「食育の里」は、食の安心がゆとりを生み、ゆとりは楽しみと遊びをもたらすことを教えてくれた。それら現場の動きを受けて、宮城県は今、「食の地方分権」として、「地域の食卓」を結ぶ「新しい食の道づくり」に取り組もうとしている。

 浅野知事は食の博物館・冬編でこう挨拶した。

 「これまでは『食の国道』の一本道で中央に向かって農産物を運ぶことにしばられてきた。これからは『地域の食卓』を豊かにし、これを『食の県道』『食の市町村道』で結びたい。都市主導の大量生産・大量販売の一本道ではなく、県レベル、市町村レベルで食と農を近づける多様な『食の道づくり』をはじめたい」

 地域の食卓とは「第三の食卓」であり、そこには「商品化以前」の食の力をあらわにする「食の哲学」がある。「増刊現代農業」5月号(4月発行)は、多様な「地域の食卓づくり」「食の道づくり」を特集した『食の地方分権』(仮題)である。

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