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農文協トップ主張 2003年11月号

二つの「禍い」を福に転じよう
不作と「米政策改革大綱」と

目次
◆三回の不作――それぞれの違い
◆地産地消で米を売る
◆参加・不参加は個人の自由
◆地産地消は「自給の社会化」

 この秋、イネを作っている農家は、二つの禍い(難問)を受けている。

 一つは自然からの禍いで、イネの作柄が不作なことだ。どのていどの出来か、まだよくはわからないが、不作であることはまちがいない。

 もう一つの禍いは社会からの禍いで、来年度から「米政策改革大綱」(昨年十二月三十日農水省決定)に基づく生産調整の新制度が実施されることである。この二つの禍いを福に転ずる道がある。まず、第一の禍いである不作について考えてみよう。

三回の不作――それぞれの違い

 大崎耕土と呼ばれる、古川市を中心とした宮城県の穀倉地帯の読者から稲穂が送られてきた。一穂の七分方が白穂で、穂首にはイモチの斑点がはっきりみられた。悲しいイネの姿である。一部には、不作による米価下落のもちなおしに期待する向きもあるし、事実、政府全量買い上げの食管制度がなくなって米も市場経済の只中に置かれているいま、不足すれば価格が上がることはまちがいない。だが、それでホッとするのは、自らが市場経済にまきこまれることになる。

 ここは冷静に考えてみる必要がある。どだい、値上りをしたところで、収量が少ないのだから収入全体はどっちこっちのものだろう。長期的にイネを作りつづけることで暮らしを成り立たせることを考える――それが禍いを福に転ずる道である。

 不作といっても昭和五十五年(一九八〇年)の凶作、一〇年前の平成五年(一九九三年)の凶作とは社会状況がちがう。

 昭和五十五年(一九八〇年)のときには厳然として食管法が機能していた。だから価格が急騰することはなかった。

 平成五年(一九九三年)のときにも食管法はあった。ただし、特別栽培米や縁故米の制度ができていた。

 今年(二〇〇三年)の不作は食管法のない時代(つまり、自由に米を売ることができる状況)での不作である。

 厳然として食管法が機能していた昭和五十五年の凶作のとき、当時、米価審議会唯一の農家の米価審議会委員であった石川県の竹本平一さんは、「こんなにはっきり食管制度の存在価値が納得できた年はない」と語っていた。

 竹本さんのいう食管の存在価値とは消費者にとっての、である。もし食管がなければ米価は高騰したにちがいない。当時の標準価格米は凶作であっても一〇kg三二六〇円という固定価格で流通したのである。

 平成五年の凶作は昭和五十五年よりも激甚だったし、また備蓄米が僅少だったので、海外から大量の米を輸入するほかなかった。しかし消費者は輸入米をきらって、国産米をなんとしても欲しがったし、入手できなければ外国産米を食べるのではなくパンやめん類で代替したのだった。

 当時の本誌にはさまざまな農家の声が載っている。

 「これまで年賀状の交換もしなかった都会に住んでいる姪から?おじさんにこんなことお願いできる筋ではないのですが、幼い子供に安心できる米を食べさせてやりたいので、少しでもいいから都合できないものか?と電話がありました。家族で相談し、たまにはパンやうどんを食べることにしてでも、今困っている人にいくらかでも応えてあげようと、さっそく精米して送りました」(平成六年九月号/富山県・高島忠行さん)。

 「おばあさんのゲートボールの友だちだとか、今では全くつきあいのない過去の親戚だとか、わが家との何らかのつながりを頼りに、とりあえず五キロでも一〇キロでも分けてもらえないかと――。でも、わが家には持ち越しの保有米もお分けするほどの量がなく、お断りするほかなかった」(同/愛知県・野田富美子さん)。

 とにかく消費者(米をつくれない人)から生産者(米をつくる人)に、米が欲しいという願いが殺到したわけである。高島さんのように自分の食べる分を減らしてでも送った人もあり、野田さんのように分けたくても分ける米がなかった人もある。

 この凶作を機に、縁故米や特別栽培米の制度の利用が高まった。そして、平成七年(一九九五年)に食管法が廃止され、生産者が自由に米を売れるようになり、産直や直売所による米の直接流通が全国的にみられるようになったのである。

地産地消で米を売る

 さて、米が自由に売れるようになった状況のもとでの初めての不作である。村々で女性パワーによる加工場や直売所が立ち上がっている状況、地産地消の運動がさまざまなレベルで取り組まれている状況、というなかでの不作である。価格上昇に期待して、黙っていても米は売れることに安心するのではなく、こうした新しい動きに沿った米販売を増やしていくチャンスである。米をまず、地産地消の動きのなかで売るのである。そうすることで、豊作のときにも安定して米を売る基盤をつくっていくのである。

 じつは、?地産地消?で暮らしを成り立たせている農家は以前からあった。

 福岡県筑紫平野の井上信幸・ユキエ夫妻は、ずいぶん前から米を地元で直売している。主に借地で二〇haのイネづくりをしているが、約一〇〇〇俵の米の八割方は地域の顔見知りの人たちや食堂や病院への直売で売ってしまう。お得意さんは二〇〇軒近い。地域の人たちだから宅配便を使うまでもない。自分で配達する。文字通りの地産地消だ。

 イネづくりはずっと減農薬、鶏糞と米ヌカでやってきた。食管法の時代、つまり農家が直接米を売ると罪になった時代、井上さんは自分でつくった米を食べる人に直に渡せないことが残念だった。昭和六十二年(一九八七年)になって特別栽培米の制度ができた。減農薬など、特別の栽培法で作った米は、食糧事務所に届け出れば自分で売ってよいという制度だ。井上さんは早速これを利用して産直を始めたのである。

 はじめのうちはどうということのない紙袋に入れて口を結んで「ハイお米」、と渡して歩いた。だんだんお客さんが増えてきた。

 その理由は、一つにはおいしいお米だったから。井上さんは配達の直前に精米している。今ずり米はおいしい。おいしければリピーターが増える。「井上さんのお米、おいしいよ」という口コミも増える。イモづる式に増える。

 こうした中で平成五年の大凶作がやってきた。井上さんの田んぼも、せいぜい反当四、五俵というありさまだった。そしてにわかに米業者が横行することになった。一俵四万円でどうか、などと庭先までやってくる。井上さんはこれには一切乗らず、約束した人たちに約束した値段で配達しつづけた(詳しくは本年四月号三二二頁参照)。

 井上さんは大きい農家だが、静岡県の山間部で、お茶(五〇a)、ミカン(三〇a)、米(七〇a)の複合経営をしてきた荻田均さんは、こぢんまりした経営である。この面積は二〇余年前、四〇歳前後のころの数字で、このほか山羊や鶏、和牛を二頭、蜜蜂なども手掛けていた。いま六〇歳代、子育てが終って畜産はやめ、ナシの法人経営に参加している。ミカンは減らし、その分お茶を増やした。ところで田んぼなのだが、いつのまにか借地が増えて現在は四haになっている。いつのまにか――というのは積極的に増やしたのではないという意味である。たのまれて、労力には余裕があるから作る。地域の安定兼業農家の肩がわりをしてあげている。もともと地域のためのイネつくりなのである。小作料は一俵。その一俵では足りないから、そうした?地主さん?たちは荻田さんの米を年間通じて買う。口コミで荻田さんの米を買いたいという人が増え、およそ収穫した米の半分は、それではけている。残り半分は農協出荷。

 「地元のお米を食べる人がだんだんと増えてきたようです」と荻田さんは言う。地産地消(地元流通)は静かに増えてきているのである(詳しくは本年七月号三一六頁参照)。

 もう一つ、米ではない例を挙げよう。

 乳牛、和牛を問わず、ここ数年のBSE騒動で養牛農家は大きな損失を受けた。和牛の肥育と、育てた牛でレストランを経営している岩手県の菊地憲野さん一家の場合も、牛の出荷自体がとどこおったし、レストランの客足も多少は減ったという。しかし「BSE騒ぎも、終わってみると悪いことばかりではなかったです」と菊地さんはいう。騒ぎも一段落して、学校給食に菊地さんの牛が使われるようになったのだ。素性の知れた牛を、ということで旧村の小学校が使ってくれたのをきっかけに、今では市内の小・中学校六校で使われている(詳しくは本年九月号三一六頁参照)。

 井上さん、荻田さん、菊地さん、三人とも?地産地消?の先輩たちだ。経営に大きい小さいのちがいはあっても、その暮らしぶりは地域密着型である。こうした農家のやり方がアメリカやオーストラリアのような開拓型の農業とは異なる、日本型農業本来の道なのだ。

 地産地消の動きを、もっともっと盛り上げて、農業を地域の産業として確立していく。そのチャンスとして今年の不作を生かしたい。今年の少ない産米は、まず地産地消させよう。それが将来にわたって禍いを福に転ずる道になる。なにも小さな経営をやめることはない。反対に、小さな田んぼを作りつづけて、地元に密着することが、農業の軸足を強くしていく。

参加・不参加は個人の自由

 さて、第二の禍いである「米政策改革大綱」なのだが、この新しい制度についてはどうも表面的ないい方ばかりが伝わっているように思われる。

 たとえば「減反は面積配分でなくて生産目標の配分になる」といわれる。国レベルで来年の米は×××万トン、生産しようという数字が示され、それが都道府県から地域に下りてきて、それを受け入れる、ということだ。だが、農家の段階では、これこれの量を生産するにはこれこれの面積が必要でそれ以上は必要ないということになるのだから、作付けしない面積を決める(つまり転作面積を決める)ことに変わりはない。

 また「転作奨励金」がなくなるといういい方がされるが、水田にイネ以外の作物を作付ければ「産地づくり交付金」が出て、その使い方は地元(地域水田農業推進協議会)が立てた「地域水田農業ビジョン」に基づいて地元の裁量でやれるのだから、転作すれば奨励金(交付金)は出るわけで、個人に配分することも可能である。

 新しい制度を禍いだ、難問だとばかり受けとめていてはだめで、どう利用できるのか(というより、どう利用するか)の協議が大切になってくる。禍いのなかのどこに福があるかを見極めなくてはならない。

 この「大綱」はもともと食糧庁長官のもとに設置された「生産調整研究会」の一〇カ月間の討議にもとづいて決定されたものだが、その研究会の座長を務めた東大教授生源寺真一氏は、「大綱」についてつぎのように断言している。

「改革後の生産調整は農業者の経営判断を尊重するシステムを目指している。私なりに表現すれば、メリットを享受することを前提に納得のうえで生産調整に参加する仕組みであり、デメリットを甘受することを条件に自己責任であえて参加しない判断を尊重する仕組みである」(生源寺真一『新しい米政策と農業・農村ビジョン』一九頁)。

 ひらたくいえば?生産調整に参加すればこれこれのご利益がありますよ。入らなければご利益はないけれど、入らなくてもそれはあなたの自由です?ということなのだ。

 だから、ご利益とは何かを研究することから始めるのが筋である(「交付金」の使い途の範囲の「ガイドライン」は九月に示された。新制度の地域裁量については前月号の主張「農家の力で地域を元気にする『水田農業ビジョン』づくりを」を参照)。

 その上で、田んぼにイネ以外のなにをつくるか、どのように新しい生産調整の制度を利用するか、それを地産地消の強化推進に役立てる方向で考えよう。

地産地消は「自給の社会化」

 単品の大産地を形成して大量生産・大量遠隔流通させるのが農業生産の基本だとされた時代があった。旧基本法の時代である。一方で都市の小売店は個人の商店がすたれ、スーパーマーケットが全盛の時代になる。こうした動きが生産者と消費者を切り離す働きをした。もともと生産者というものはいないし消費者というものもいない。一人の人間は必ず消費者であり生産者でもあった。つまり生活者なのであった。

 生産者と消費者が切り離されると、両者は利害の一致しない対立者としてとらえられるようになる。どこの産地かもわからず、売る人(商人)の顔もみえない関係ならば、消費者は消費者として、生産者は生産者として貫徹する他ない。一切の相互作用(働きかけ、働きかけ返される関係)がなくなってしまう。

 そうした時代に地域に密着しようとする農家がしだいに現われてきた。福岡の井上さんにしても、静岡の荻田さんにしても、規模はちがうがイネを作って自給し、その余りを地域の消費者(作れない人)に顔の見える間柄を保ちながら分けてあげている。分ける方が多くても、生産者(作る人)が自分で食べたうえで分けている(売っている)ことに変りはない。道の駅や直売所での販売、学校給食への食材提供も、生産者(作る人・自給できる人)が地域の消費者(作れない人・自給できない人)に分けてあげているのだ。

 そうした小さな動きがいま、地産地消と呼ばれて推奨されるようになってきた。農文協はこれを?自給の社会化?と呼んでいる。自給が「自分自身でつくること」という意味ならば、このいい方はおかしいということになるが、自給の共同体ができたのだとみればおかしくはない。地域内自給、自給生活圏、などということばも成り立ってくる。

 地産地消、自給の社会化が、生産者と消費者を、生活者という概念で合体する。生産者と消費者という区別が取り払われて、地域に暮らしている人みんなが生活者としてイメージされてくる。地産地消、自給の社会化は生活者というイメージに実体を与えるものなのである。

 インターネットという情報技術、宅配便という流通技術が、地域の範囲を拡大し、都市と農村との間でも自給の社会化を可能にする。そうした?生活の構造改革?がすすめば「農政の軸足を生産者から消費者に移す」というような発想は出てこなくなるだろう。生産の軸足は作る者の側になくてはならないのは自明で、その軸足が強くなることで自給の社会化が普遍的なものになっていくのである。

 今年の不作を地産地消の徹底のチャンスとし、来年度からの制度の変更を新しい生産を創造する契機としよう。

(農文協論説委員会)

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