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農文協トップ主張 2004年4月号

「土建の帰農」
タテ割り公共事業から、地域の農業・環境・福祉へ

目次
◆GDP10%で「普通の産業」
◆建設業のひとり歩きがむらの暮らしと景観を壊した
◆農業と一体の土木がつくった「日本一美しいダム」
◆土木建設業が、再び農業と一体となる時代
◆農業も土建業もひとり歩きから向かい合いへ

 土木建設業者の倒産がつづいている。民間、公共事業を合わせた建設投資の総額は、1992年の84兆円をピークに、現在はその7割程度まにで落ち込んでいる。一方で建設業者数は2000年度の60万社から、昨年度は55万社にまで減った。

 雇用といえば「役場と農協と建設会社しかない」地域が大半を占める農山村では、土木建設業と兼業の農家も多い。この問題は地域の将来にとっても重要な問題だ。農文協では、「現代農業」2004年2月増刊号『土建の帰農 公共事業から農業・環境・福祉へ』を発行した。そこには中央から来る仕事をただ待つのではなく、地域の足元を見つめ、地域に必要とされる仕事をおこすことで、自らの雇用と地域の経済をまもろうとしている全国の土木建設会社の奮闘ぶりが報告されている。

GDP10%で「普通の産業」

 「建設業の新分野進出」を研究する建築技術支援協会の米田雅子さんは、建設投資は「今後さらに3割下がり、ピーク時の半分くらいで落ちつく」と予測している。その場合の建設投資額は、約50兆円。84兆円の時点の雇用規模は630万人だったが、投資が7割に落ちても、現在、就業者は1割しか減っていない。しかし、50兆円にまで下がれば雇用規模は350万人程度になり、その差210万人の雇用がどこかに吸収されねばならなくなるという。

 だが米田さんは、『土建の帰農』のインタビュー記事で、「建設市場の規模については、むしろこれまでが異常に公共事業が大きな時代であって、これからは縮小していかざるを得ず、それはむしろ普通の産業に戻ると考えたほうがよい」と述べている。「普通の産業」とは、どういうことだろうか。米田さんは、自著『建設業の新分野進出』(東洋経済新報社)のなかで次のように述べている。

 「94年には日本の建設市場がGDPに占める割合は2割近くありました。GDPに占める建設の割合というのは、一般的に、社会資本が未整備の発展途上国で高く、先進国で低い傾向があります。先進国のほとんどは1割未満であることを考えると、日本は先進国になった後も、異常に高かったことがわかります」

 戦後日本の土木建設業の異常なまでの肥大には、つぎの三つの要因があったという。

 第一は社会資本の整備。建設業本来の役目で、戦後何もないところから短期間に、大量に社会資本をつくる必要があった。この間の建設投資の増大は当然のことだった。

 第二は、高度成長以降の都市の膨張と農山村の過疎化の時代、「均衡ある国土の発展」をスローガンに、中央から地方への富の再配分として建設投資が使われたこと。政治家は予算を地元に引っ張って、「中央とのパイプ」を誇示した。

 第三は、高度成長後も不況対策や内需拡大などの経済政策として、公共事業を増やす政策がとられてきたこと。73年のオイルショック後に、経済はいったん安定成長に入り、公共事業は抑制され、高度政策時代に計画されたビッグプロジェクトの多くが中止されたが、80年代後半の貿易不均衡是正のための内需拡大、90年代不況の雇用対策として地方建設事業が使われた。

 言い換えれば、地方が実際に必要とする社会資本がほぼ整備された後は、使うことよりつくること自体が自己目的化した公共事業がつづけられ、「土建国家」と呼ばれるほどの肥大を招いてしまったのである。

 したがって、建設市場の縮小は「不況のせい」などではなく、公共事業が「普通の先進国なみ」、つまりGDPの10%以内の「普通の産業」に戻ることなのだ。

建設業のひとり歩きがむらの暮らしと景観を壊した

 以上のことを、むらの内側からふりかえってみよう。『土建の帰農』に福島県只見町で木材の加工協同組合を営む吉津耕一さんが、つぎのように書いている。

 「只見町の主要な産業は、昭和27、8年に水力発電用のダム建設が始まるまでは農業だった。その時代には農業と土木建設業は表裏一体の関係にあった。水害を防ぐための堤防つくりや、山仕事をやりやすくするための林道つくり、開墾や収量アップのための用水路つくりなど、農業や農村の生活を守り発展させるために必要な土木工事はそれこそ山のようにあった。この時代につくっていたものは地域の人が切実に必要と思っているものばかりで、完成すれば明らかに、みんなの生活が改善した。田んぼや畑の収量や利用価値も上がった」

 「しかし、ひととおり道路の舗装や堤防の建設が終った昭和50年代のはじめころからは、とくに切実に必要とは思われていないような場所にまで巨大な砂防ダムや三面コンクリートの水路がつくられて、下流の景観を台無しにするようになった。ハコモノ公共事業もどんどん増え出した。木造の小中学校を鉄筋コンクリートにし、利用することよりもつくることに目的があったとしか思えない博物館や記念館など……。どんなにむだだとわかっていても、自分たちの仕事の確保のためにはがまんをするしかなかった。この時代には耕地面積が増えるわけでも、収量が増えるわけでもない。ただ田んぼを大型にして農道を舗装して水路をコンクリート製にする、農業基盤整備という農業予算による公共事業も行なわれた。日本の農地の平均価格は反当り142万円と言われているのに、農業基盤整備の費用は反当り200万円以上かかる。8割以上もの補助が出ても、残り2割の反当り40万円くらいの借金を20年間の分割で返すために年金収入をつぎ込んだり、泣く泣く農地を手放さざるを得ない人まで続出している。かつて農業や農村を守り発展させた土木建設業が、農家の生活や農村の景観を破壊するようにまでなってしまった」

農業と一体の土木がつくった「日本一美しいダム」

 「農業と表裏一体だったころ」の土木建設業は、その地域ならではの個性ある美しい景観をもつくり上げていた。昨年、『とっておきの風景 水辺の土木』という本が出版された(INAX出版)。観光資源ともなっている近代日本の土木遺産を全国から集めた写真集だ。そのなかに、「白いレースが下りてくる日本一優雅なダム」として、大分県竹田市の「白水ダム」が紹介されている。昭和13年に完成し、平成11年に国の重要文化財に指定された堤高14mの小さな農業用ダムである。写真でお見せできないのが残念だが、解説文を引用したい。

 「堰堤に近づくと、シャラシャラという、このダム独特の流水の音。堰堤を覆う白い水しぶきが眩しい。堰堤は左右非対称になっている。左岸は、円形の階段で擁壁が固められ、その上を水が順番に下りていく。右岸の壁はねじれたカーブになっていて、遊園地のウォーター・コースターのように、水が回りながら滑り落ちる。堰堤の中央部分は目の粗い切石が積み上げられ、水が石に当たって白いレースのような鱗模様を描いて落ちていく。(略)優しくて従順な水の姿だ」

 このダムは、公共事業でつくられたものではない。地元の農家が水利組合をつくり、自分たちで資金を集め、自分たちの手でつくったものだ。

 「公共事業の観念がない時代、地域住民が自前で井路をつくるには、幾多の困難が伴った。水利組合をつくり、工費を負担する組合員(農民)を説得し、代議士の応援を仰ぎ、銀行とは借金の交渉。豪農は私財をなげうった。(略)おそらく全国の井路でも似た話はあるのだろう。工事に携わった技術者も殉職した。(略)音無井路には三つの水路に水を公平に分配する円形分水という装置があり、その側には須賀甚助の鎮魂碑と『水は農家の魂なり』という水魂碑が立つ」

 資金も資材も潤沢にはない自前の事業だから、地域にあるものを生かすしかない。

 「ブロックのように精密に加工された目の粗い切石が、整然と積まれている。堰堤内部に敷き詰められているのも切石で、高価なコンクリートの使用を最小限にとどめるためだ。石は地元で採れる阿蘇溶結凝灰石。地元の材料は景観と無理なくマッチする。ダムから数m離れた場所で突き出していたのも、同じ石だった」

 そして工法も、現在のように大型重機で簡単に巨大なものをつくれる時代ではないから、いかにその土地の条件と「折り合い」をつけるかが求められた。

 「設計を担当した大分県土木技師の小野保夫は、絵描き志望だったという。土木構造物をキャンバスに、水を使って見事な絵を描いたといえるだろう。しかし、この日本一美しいダムの意匠は、構造に規定されたものだ。地盤の弱さを補うため、左岸に階段状、右岸に局面上の擁壁を築いて、水圧を減速させ、下流部に集めた。脆弱な地盤と格闘して最適解を導いた小野の技術者マインドも、水が跳ねる姿と同様に美しい」

 写真集『水辺の土木』には全国から21の土木遺産が収録されている。そのなかには秋田県象潟町の上郷温水路、香川県大野原町の豊稔池ダムのように、冷水障害や水不足の解消という農家の熱望をあつめ、農家自らが石積みの技術を習得し、農閑期を利用してつくりあげたものも少なくない。そしてそれらはすべて現役だ。その土地の風土をよく知る農家が、その土地にあるものを生かし、時間をかけてつくり上げたからこそ、小さいけれど、強くて、美しい土木遺産になったのであろう。

土木建設業が、再び農業と一体となる時代

 この「日本一美しい」白水ダムが、『土建の帰農』にも登場する。ダムの近くには、2000年からの「中山間地への直接支払い制度」に向け全国で最初に集落協定を結んだ竹田市九重野地区がある。農家戸数111戸の九重野地区には、「集落協定への地域の合意が短期間で得られたのはなぜか?」「年間で2400万円もの交付金の使い道は?」などの疑問をたしかめようと、年間3000人もの視察者が全国から訪れる。その視察受け入れの体験から、九重野地区では、食と農の資源を生かした観光産業へのステップアップも始まっている。

 たとえば、交付金の3分の2を積み立てた共益費の一部を使って2002年に完成した加工所「みらい香房若葉」。14名の女性が、地元産青大豆を使って青豆腐を年間6万丁生産するこの加工所を視察ルートに加え、研修室で昼食の提供も始めた。「ものをつくるだけの加工所でなく、人に来てもらい、楽しんでもらう場所にしたい」と、手弁当で加工所の横に水車小屋をつくったのは、地区の「年金者同盟」の男性たち。近くに炭焼き窯も田楽炉もつくり、ここでつくる豆腐や味噌を、この場で楽しむ「田楽豆腐」の用意もできた。

 九重野地区の集落営農の運営母体である「担い手育成推進協議会」会長、後藤生也さん(75歳)は、九重野にあるものを生かし、暮らしのなかに人びとを招き入れる観光産業にも乗り出したいと、つぎのように話している。

 「九重野には長年の水争いを解消するために、先人がつくった努力の結晶である『円形分水』があり、周辺には、農業用水路の取水堰としてつくられた国の重要文化財『白水ダム』があります。これらを加工所の食べものづくりの現場、祖母山、越敷岳の自然の景観などと一緒に楽しんでもらう交流プログラムも事業化していきたい」

 昨年から、円形分水に隣接する田んぼには、古代米が植えられ、田植え、稲刈り体験も行なわれている。円形分水は農業用水路としてだけでなく、観光資源としても生かされるようになった。

 「今後、近隣の地区も含めた観光ルートを整備することも必要になる。また地元の建設業者の力を借りる場面も出てくるでしょう。大きな道路をつくるだけが公共事業ということではない。農村の環境保全や景観の整備を、農業者と建設業者が、連携してやっていけたらと思います」

 後藤さんが「また建設業者の力を」と言うのには理由がある。そもそも九重野の集落営農は、地元建設業者との協力関係抜きには成り立たないものだったのだ。棚田の多い九重野では、九三年に始まる基盤整備による換地以前は、一枚の田は3〜5a。一方で高齢化が急速にすすみ、新聞に「集落崩壊の危機」と書かれたことさえあった。そのままではいずれ耕作放棄されることが予想されたため、田を10〜20aに広げると同時に受託耕作をする若い担い手8名を選んだ。8名を育てることで、高齢農家には「身体がつづく限りやればいい。できなくなったらまかせればいい」という安心感も生まれた。

 しかし、この8名のうち、4名が葉タバコとの複合経営だった。99年、国が緊急生産調整を打ち出し、41%の転作が課せられたため、大豆の団地化に取り組むことになったとき、大きな問題が持ち上がった。大豆の種まきとタバコの収穫時期が重なるため、作業がこなせなくなってしまったのだ。その危機を救ったのが、大分県建設業協会から派遣された17名のオペレーターだった。公共事業を請け負っている業者にとっては、初夏から秋までは予算の関係で発注がなく、開店休業状態も少なくない。かたや農家は、田植えから収穫までのもっとも忙しい時期。農業と建設業が、うまく相互補完できるのではと考え、後藤さんが協会と交渉して派遣してもらったのだ。その後藤さんは農家だが、じつは1968年から86年まで地元の建設会社に勤め、取締役に就任していた。その後、別の建設会社の専務を務めたこともあり、そのときの人脈と経験が、建設業協会との交渉に役立ったのだ。

 九重野の農家人口344人のうち、60代以上は52%を占める。しかし、いま、93haの田んぼの利用率は180%を超え、荒れた田はまったくない。山あいの田は、10月ともなると、黄金色に光る稲穂と大豆の緑のコントラストが美しい。11月にはソバの白、春には菜の葉の黄に染まる。小さな農地を生かす努力が景観をつくり、食を育み、視察者を呼んで、いま、むらまるごとの六次産業へと向かいつつある。その、むらの変化に寄り添って、小さいけれどもたしかな手ごたえの、新しい土木建設業の仕事も生まれている。

農業も土建業もひとり歩きから向かい合いへ

 只見の吉津さんは、「最近は農村地域と土木建設業の関係に再び大きな変化が起こりつつある」と、書いている。只見のある建設会社の社長は、所有者が高齢で耕作できなくなった開拓地で水田をつくり、無農薬でつくった米を友人、知人にプレゼントしたり売ったりして、型にはまった建設業ではない楽しみを得ているという。また、森林組合から山の刈り払いを請け負っていた会社は、建設業や森林組合をリタイアしたシルバー人材を集め、重労働の農作業や機械作業を一日8000〜1万2000円で請け負う農業や土木作業の手伝いサービスを始めた。シルバー農林業をシルバー人材派遣会社が助けるという発想だ。

 このほか『土建の帰農』には、バブル期に抱え込んでしまい、その後の地価下落で売るに売れなくなった土地を生かし、定年帰農やグリーンツーリズムを受け入れる農園を開いた例(長野県原村)、構造改革特区制度を利用して、旅館業、酒造業、畜産農家などの五人の仲間とともに会社を設立、産業廃棄物の捨て場と化していた牧場跡地を入手し、観光牧場として再生させつつある例(新潟県浦川原村)、立ち消えになった工場誘致計画用地を借り、地域密着型のデイサービスセンターを建設した例(長野県飯田市)など、建設業者の「公共事業から農業・環境・福祉へ」のさまざまな実例が紹介されている。

 「土建業のひとり歩き」は、地域の暮らしの横つながりからではなく、「中央とのパイプ」によって地域にもち込まれたものだった。しかし都市の膨張の時代、農業もまた「ひとり歩き」ではなかっただろうか。大きな産地をつくり、遠くの大消費地へ送り出すことにのみ未来があると思い込んでいなかっただろうか。

 だが都市の膨張の時代が終わり、農業の場合は80年代後半から、女性・高齢者による朝市・直売所という横つながりのむらうち流通の回復が始まった。そしていま、土木建設業もまた「ひとり歩き」をやめ、むらの農業や暮らしとの横つながりのなかに新しい仕事をおこし始めた。

 「帰農」とは、その横つながりの向かい合いのなかに未来を見出すことである。

(農文協論説委員会)

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