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農文協トップ主張 2005年10月号

戦後60年の再出発
若者はなぜ、農山村に向かうのか

目次
◆自分で農業をやらずに農村振興は語れない
◆生活・生産文化の継承を「仕事」に
◆自給に根ざした自治を創造
◆団塊世代を呼び戻す準備をすすめる
◆戦後60年の企業社会を越える農山村の再出発

 今年は戦後60年の節目の年。敗戦後に生まれ、農山村で育ち、都市に出て高度経済成長を支えた「団塊の世代」が、2年後に続々と定年退職を迎えはじめる。その数およそ700万〜800万人。

 そして、1970年代以降に都市で生まれた団塊ジュニアは800万人。だが、彼らは、企業で順調に働き続けることができた団塊世代とは、ずいぶん様子がちがう。34歳以下で定職に就いていないフリーターが400万人、就職も、就職のための学習もしていないニートと呼ばれる若者が60万人にものぼる。終身雇用・年功序列を基本として再生産されてきた戦後の企業社会は、わずか二世代、60年で大きな曲がり角を迎えているのである。

 一方、統計こそないものの、いま、農山村に目を向け、農山村の戦後60年をまもり抜いた祖父母世代の技と知恵に感動し、その技と知恵を受け継ぎ、農山村の新しい「仕事」をつくり出す若者が目に見えて増えてきている。

 農文協は、戦後60年の農山村に芽生えつつある若者の新しい生き方、暮らし方、働き方を追いかけ『戦後60年の再出発 若者はなぜ、農山村に向かうのか』(増刊現代農業8月号)として、このほど発行した。

自分で農業をやらずに農村振興は語れない

 その表紙を飾るのは、熊本県南阿蘇村(旧白水村)の二子石敦男さん(53歳)と大津耕太さん(30歳)の笑顔の写真。二子石さんは軽トラの運転席からカメラにふり向き、大津さんはその傍らに泥だらけの笑顔で立っている。2人は20軒の仲間とともに「おあしす米生産組合」をつくり、全国700軒以上の家庭に産直販売している。「おあしす米」の名は「おいしい・あんぜん・しんせん・すてきなお米」から。旧白水村は全国名水百選に選ばれた「白川水源」をはじめ、熊本県の名水百選に7カ所も選ばれる名水の村だ。その水と「恋愛農法」(恋=コイ、愛=アイガモによる除草)で「おあしす米」がつくられる。ちなみに大津さんの笑顔が泥だらけなのは、田んぼの中干しの前のコイの救出作業の後だったから。

 大津さんは熊本市出身、妻の愛梨さん(31歳)はドイツ生まれの東京育ちで、ともに慶応義塾大学環境情報学部を卒業後、ドイツのミュンヘン工科大学で修士号を取得した。後継者がいなかった叔父の大津励志さん(51歳)の農業の後継者となったのは一昨年。励志さんだけでは手が回らなくなって数年前にやめていた繁殖牛も、夫妻の参入で再開となり、現在親牛だけで14頭。すべて阿蘇名物の「あか牛」だ。

 農家となった理由について、大津夫妻は『若者はなぜ、農山村に向かうのか』でこう書いている。

 「(大学では)『明るい農村づくり』が研究のテーマだった。もともとは地域計画や環境調査が専門だったが、実際に農業もせずに農村振興を語ることに疑問を持ち始めた。本気で農業の振興を考えるなら、叔父の農業を継ぐのが一番! そんな思いがしだいに強くなっていった」

 夫妻が取り組んでいるのは農業だけではない。日本一の面積を誇るが、維持管理に手間がかかり、年々面積が減っている阿蘇の草原をまもるため、ススキに対する潜在的な需要を掘り起こし、商品化できないかとNPO活動を立ちあげた。昨年度は経済産業省の「環境コミュニティビジネス支援事業」にも採択され、調査や実験に取り組んだ。

生活・生産文化の継承を「仕事」に

 いま、農山村に向かう若者には、大卒、大学院卒、あるいは海外留学体験者が多い。新潟県上越市の村づくりNPO「かみえちご山里ファン倶楽部」の場合は男性4名、女性5名の計9名のメンバーのうち8名が大卒で、そのうち2人が大学院卒、1人が国内とアメリカの大学双方を卒業している。農山村は彼らの「学び直し」の場にもなっているのだ。

 このメンバーがNPO設立の2001年にまず行なったのは、「伝統生活技術レッドデータ」の作成だった。活動の場である桑取谷は、水源の森から海まで約13kmの桑取川ぞいに9集落120軒が暮らす地域である。農業と養蚕を中心に山里の文化が形成され、雪国特有の伝統技術、伝統行事・芸能などが多数残っているが、近年は高齢化や若者の流出で、それらが年々消滅し、市無形文化財指定の小正月行事や、桑取谷特有の技術「一本ぞり」もその伝承が危ぶまれていた。一本ぞりとは、放射冷却で山の雪面が凍ったとき、スノーボードのようなそりにV字の腕木を組んで大量の炭やカヤを積み、斜面を一気に駆け降りる技術。

 そんな状況を目にした彼らは「あなたはどんな技術をもっていますか」「あなたの年齢はおいくつですか」の質問用紙を全戸配布し、「絶滅危惧生活技術」をリストアップした。80歳をその技術を伝承できる限界の年齢と仮定し、技術の保持者が80歳に達するまでの年数を技術伝承の猶予期間として、あと何年でその技術が消滅してしまうかを推定した。これを一覧にしたのが「伝統生活技術レッドデータ」だ。

 それによれば、危機レベルAランクは石工で技能保持者1名、消滅推定年はゼロ年。Bランクは茅場手入れの2名7年ほか、竹加工9名8年、養蚕6名8年、薪の採集8名9年、アンジキ(囲炉裏の上の天井の竹組み)作り1名10年など。そしてCランクの土間作り、縄ない、井戸掘削、一本ぞり、棚田手入れ、Dランクの雑木林の手入れと続き、もっとも猶予期間の長いEランクは大工で7名22年、左官5名24年であった。

 「かみえちご」では、危機ランクが高い順に自らその技と知恵を受け継ぐとともに、集落住民で構成する「建築物部会」「民具・伝統工芸部会」「民俗行事・芸能部会」「食と農業部会」「川の恵み部会」と一緒に、都市生活者や子どもたちを対象にした「茅ぶき古民家改修 桑取ことこと村づくり学校」「塩田で伝統塩作り体験」「日本海 鮭漁と塩引き作り体験」などの体験企画として提供している。

 この8月27、28日には東京のカタログハウスとの提携で、水源の森から海辺までを歩く「水の行方をウォーキングで辿る 水・奇跡の旅(大人編)」を行なった。現地集合で1泊2日1人1万8500円のこの企画、定員の30名はすぐに満員になった。若者たちは、桑取谷空間の生活・生産文化を継承することで、自分たちと住民の「新しい仕事」を創造しているのだ。

自給に根ざした自治を創造

 「かみえちご」では、「市民の森」や「リフレッシュビレッジ事業」など、年間約3000万円の上越市の運営委託事業を受けている。9名のスタッフを抱え、わずか4年間で多くの地域資源を掘り起こし、体験事業や環境教育などの企画を充実させることができたのはその委託事業によるところも大きい。だが、そこには従来の委託事業とは一味も二味もちがう創造性がある。「かみえちご」事務局長の中川幹太さん(30歳、兵庫県出身、広島大学工学部建築学科卒)は次のように書いている。

 「委託事業費の数字以上に重要なことは、委託事業担当のスタッフであっても、委託内容にしばられず、地域行事の支援、伝統文化の記録保存と体験(文化振興)、環境美化活動への参加(環境)、地域観光資源の掘り起こしと事業化(観光)、老人の体験講師としての召還や独居老人の生活支援(福祉)、農業振興と商品化・販売促進(農林水産)、地域自治政策の提案など、公益性の高い自治的な業務をNPOのスタッフとして自主的、積極的に行なってきたことです。受託事業のひとつである『地球環境学校』という廃校になった小中学校の校舎を利用しての環境教育の事業では、委託内容である環境教育のほかに、立地する中ノ俣地域において自主的に上記のような行政の支所に似た機能をもち始めています」

 「かみえちご」の若者たちが創造しているのは「仕事」だけではない。桑取という旧村、また廃校になった校区を単位として、自給に根ざした新しい自治、コミュニティをも創造しているのだ。

団塊世代を呼び戻す準備をすすめる

 『若者はなぜ、農山村に向かうのか』には、戦後復興とその後の高度経済成長によってもたらされた山の荒廃に心を痛め、山村NPOや緑のベンチャー、自然学校を立ち上げ、その再生に取り組む若者たちが多く登場する。

 愛媛県松山市の「フレスコ」は2002年に、当時愛媛大学の大学院生だった牧野耕輔さん(現在32歳)と3人の学生が立ち上げた村づくり(地域部)と山仕事(森林部)を2本柱とする有限会社。

 地域部の業務は「農山村の豊かさの確認と共有」――「日本には四万を越える集落があります。縄文時代より人々は集落を形成し、豊かな自然の恵みを利用しながら助け合って生活してきました。近代にかけては集落に自治的機能が加わり、地域それぞれに『人と自然の付き合い』『人と人との付き合い』の方法が生まれました。それらの慣習は人々の暮らしを支えた自然環境と共に『故郷の文化』として各集落に脈々と受け継がれています。しかし、過疎高齢化がすすむ今日、農山村の素晴らしい環境と文化の伝承はだんだん困難になりつつあります。地域部では、都市と農山村の人達が交流する体験型イベントを通じて農山村地域の魅力を地元の方々とともに再確認し、都市の方々に伝えていく活動を目指します」(同社ホームページより)。

 森林部の業務は「豊かな森づくりと未利用木質資源の積極利用」――「戦後の燃料革命や科学技術の進歩により、私たちの身の回りには木材製品に替わる商品があふれる時代にもなりました。また、国産材の価格低迷などから、山を守る人も減少の一途をたどっています。その結果、日本の山には利用されていない木質資源が蓄積されています。森林部では、この『未利用木質資源』の有効活用を通じた森林整備と、炭化による木材中の炭素固定を通じた循環型社会の構築を目指し、次の事業に取り組んでおります」(同)。

 「次の事業」とは、現地設営式の大型炭化装置「炭匠」の開発・販売や炭化代行サービスであり、路側帯に炭を敷設して雑草を抑制したり、燻煙処理した竹材で松山城敷地内の暗渠排水を行なうなどの環境資材の開発などだ。

 熊本県菊池市のNPO「きらり水源村」では、中学校の跡地を生かした「きくちふるさと水源交流館」を拠点にグリーンツーリズムと地域づくりの企画運営を行なっている。都市の親子が1年を通じて米づくり、食べものづくりを中心に農山村の生活文化を体験する「菊池おいしい村づくり」、地区の伝統芸能を伝える「きらり神楽教室」、農産物の加工や直売、水源地元学による地域資源マップづくり、川辺や滝の整備、山の手入れ、国際交流キャンプの受け入れなど、事業は多彩だ。

 事務局長の小林和彦さんは埼玉県出身、國學院大学経済学部卒業の31歳だが、これから定年退職を迎える団塊の世代をどうむらに呼び戻すかも自分たちの仕事になるのではないかと考えている。

 「農村はやがて、都市から農山村に戻る定年組を受け入れることになる。そのためには、住む場所がいる。家を建てる人もいるかもしれない。僕らがいま、山村にいる先輩たちとともに、山を守るということや、家造りの理念をしっかり伝えれば、地元の山の木で家を建てて住もうとか、受け入れ先の集合住宅を環境にも人にもやさしい地元材で建てよう、という動きがおこせるかもしれない。そしたら間伐すらされずに放置されているただの木が『家』になる。団塊の世代が持っている70兆円もの退職金をどう使うのか、使い方の筋道を提案するのも、僕らの役目かもしれません」

戦後60年の企業社会を越える農山村の再出発

 『若者はなぜ、農山村に向かうのか』の企画・取材で若者の後を追ううち、彼らの年齢が圧倒的に32歳前後であることに気づき、なぜそうなのかを調べてみた。そして慄然とした。日本経団連が「新時代の日本的経営――雇用ポートフォリオ」なる雇用のガイドラインを発表したのが1995年。まさに彼らが大学を卒業した年である。そこでは「雇用の柔軟化」として(1)長期蓄積能力活用型(将来の幹部候補として長期雇用が基本)(2)高度専門能力活用型(専門的能力を持ち、必ずしも長期雇用を前提にしない)(3)雇用柔軟型(有期の雇用契約で、職務に応じて柔軟に対応)と、雇用が3段階に分けられた。不況で企業の採用数が減っただけではなく、雇用の形態そのものが終身雇用・年功序列の時代から大きく変化していたのだ。連合などの労働界もそれを許容した。

 こうして正社員は激減し、「安価で交換可能なパーツ労働力」として派遣・契約社員、パート・アルバイトが大幅に増加することになった。95年以降の10年で、非正規雇用は50%も増え、いまや1500万人以上。一方、正規雇用は10%減少し、3500万人を割り込んだ。

 政府はいまになってニート、フリーターの増加による将来の税収・労働力不足を危惧し、「若者自立塾創出支援事業」などの若年者雇用対策を打ち出した。そのひとつ「若者の人間力を高めるための国民会議」は奥田碩経団連会長を議長に、笹森清連合会長ら「経済・労働・教育界の代表」23名の委員で構成されているが、5月に行なわれたその第1回議事録に目を通しても、彼らはニート、フリーターの増加をあくまで若者側の問題として論じているだけで、自ら選択した「雇用の柔軟化」の結果という認識はない。

 だが、若者たちはおとなたちがつくり出したそうした状況への批判にエネルギーを割くのではなく、農山村へと向かった。

 「いい大学を出ても、希望通りの職に就けず、たとえ就職しても『終身雇用』などという概念は、はじめから私たちにはなかった。自分は何をしてどんなふうに生きていきたいのか。難航する就職活動のなか、そんなことをあらためて考えたことのある同世代は少なくないはずだ。これが不況のなかで育ち成人した私たち不況世代の底力となっている気がしてならない」(大津耕太さん・愛梨さん)。

 「自分は何をしてどんなふうに生きていきたいのか」――農山村にはそれを教えてくれる祖父母世代がいた。

 そうした若者たちに「祖父母世代、団塊世代、そして団塊ジュニアの自分たちの労働観はどう違うと思う?」と尋ねると、ほぼ異口同音に次のように答える。

 「祖父母世代は生活と生産の場が重なり、暮らしをつくることが仕事だった。それは、人が『ここで生きていく』地域をつくることでもあった。団塊世代は生活と生産の場が離れて組織中心になり、お金を稼ぐことが仕事になった。そして地域とのつながりはどんどん希薄になっていった。その子どもたち、つまり団塊ジュニアの私たちは、いま一度、これまでの生き方、働き方を見直し、暮らしと仕事を近づけたい」

 人は、だれでもよりよく生きたいと思う。そして、自らの労働をとおして、だれかの役に立ちたいと思う。とくに若者はそうだ。しかし、戦後60年の企業社会は、行き過ぎた経済合理によって、労働を経済的文脈の中でしかとらえられなくなった。「働きかけることによって学ぶ」という労働の本質、労働の教育的側面は捨象され、若者を交換可能なパーツ労働力としてのみ扱うことで、労働をとおした社会の継承が危機に陥っている。そこには、自分が技能や技術を身につけ、日々成長していく実感がない。

 しかし農山村では、「ここで生きていく」ための地域の継承そのものが仕事である。生産と生活が分離せず、仕事と暮らしが一体になっている農山村という歴史的な空間。そこには、山や川、一枚一枚の田や畑など、地域の自然に働きかけ、働き返される労働をとおして形成された、個性的な技術や技能がある。それらを継承していくなかで、若者たちは自らを発見し、自らの成長を実感する。

 むらで生きる知恵を体現する祖父母世代、祖父母世代とともに農業近代化のなかで農家経営を築き、都会に出た弟や妹を支援してきたむらの現役世代、そしていま「第2の人生」を迎えはじめる団塊世代と「労働による学び」を求めるそのジュニアたち。これらの人々がつながるとき、「戦後60年の再出発」が始まる。農山村に向かいはじめた若者たちとともに、農山村と、日本、世界の未来を考えたい。

(農文協論説委員会)

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