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農文協トップ主張 2000年7月号

「定年帰農」はなぜ増え続けるのか

個性的な生き方とコミュニティを求める心情

目次
◆ふるさとを守りたい仲間とのつながりも大切にしたい
◆個性的労働・個性的自然・個性的生産物
◆人間本来のポテンシャルが「発見」される高齢社会
◆「団塊の帰農」時代がやってくる

 本欄「主張」が「人生80年時代の農業・農村を考える 昭和ヒトケタ生まれの知恵と力を」と題し、高卒18歳で跡を継ぐ人もいれば、60歳で定年になってはじめて農業を継ぐ人もいてよいのであって、「それぞれの家族の個性によって、それらは自由に選択されるわけで、どれがよいかを科学的に判定するような事柄ではない」と述べたのは1991年1月号であった。86年に年間10万人を切った新規農業従事者が、90年には戦後最低レベルの2万7000人を記録し、世の中が日本農業の「担い手不足」「高齢化」を嘆くばかりであったころのことである。

 だが、その後、新規農業従事者は増加に転じた。60歳以上の定年後の人々を中心に。92年以降を見てみよう(カッコ内が60歳以上およびその比率)。

92年  4万2200人 (2万 900人 49.52%)
93年  5万6600人 (2万9000人 51.23%)
94年  9万 500人 (4万5300人 50.05%)
95年 10万2000人 (5万9800人 58.62%)
96年 10万6400人 (5万8200人 54.69%)
97年 12万7700人 (7万7700人 60.84%)
98年 13万5900人 (7万8300人 57.62%)

 最近では、新規農業従事者の約6割前後が60歳以上となっているのである。

 このような事実を受けて、農文協では、定年後に農業に就いた方々の手記やルポをまとめ、「現代農業」98年2月増刊号『定年帰農 6万人の人生二毛作』として発行したところ、大きな反響を呼んだ。すでに帰農した読者や、定年を控えて帰農を考慮中の読者から「多くの先輩、仲間を紹介していただき、ありがとうございました」「日頃考え、夢見ていたことが現実の例としてたくさん紹介されていることに嬉しさと共感を覚えました」というお便りや、「80歳を過ぎて農業をやってきましたが、今度息子が定年で帰ってくるので読ませたい」「田舎の老父母が、私が定年後に帰ってくるかどうか心配しているが、この雑誌に登場する方々のように帰って頑張るつもりだと安心させたい」「今年、集落で3人の方が定年を迎えられるのでプレゼントしたい」などの注文が相次ぎ、発行後1カ月、また1年後に、2度も増刷をしたのである。

ふるさとを守りたい
仲間とのつながりも大切にしたい

 「定年帰農」の方々の農業や生き方はどのようなものなのだろうか。記事の中から紹介してみたい。

戦前育ちに共通の気持ち――ふるさとを守りたい

 日本一高齢化率の高い島として知られる山口県周防大島。他の瀬戸内の島々同様、ミカン価格の低迷と労働力の不足から、標高の高いところにあるミカン園から雑木が侵入し、クズが覆いかぶさって荒廃する「山が降りる」と呼ばれる状態が続いてきた。だが大島町沖浦地区(750戸)には、「われらこそふるさとのミカン山を守る後継者」と、87年に結成された定年帰農者のグループ「トンボの会」がある。会員60名からスタートし、この十数年、「沖浦の人口が3倍になる」旧盆に大会を開くとともに、帰省者に「定年になったら帰って来いよ」と呼びかける「蜻蛉だより」を地域全戸に配布、定年を間近に控えた帰省者のいる家には戸別訪問で「オルグ」も続けてきた。その結果、会員世帯は132戸にまで増えた。沖浦地区のミカン農家250戸の半数以上である。

 定年までの会員の職業はさまざまで、会社員、教員、国鉄職員、公務員、銀行員、船員など。島外の就職先からの帰農が3分の2、島内からが3分の1。年代は昭和ヒトケタ生まれが大半で、会長の奥本満男さん(元電電公社勤務.70歳)は「『田園まさに荒れなんとす いざ帰りなん』の心境でふるさとを守りたいと思った。経済は二の次。私のような戦前生まれには共通の気持ちのはずです」と、結成当時をふりかえる。

「今、私は育っている」と実感

 岡山県赤坂町の元教員・佐倉美昌さん(73歳)は、定年後2年目に地域の有志10戸が結成した「有機無農薬農産物生産組合」の組合長を引き受けたことがきっかけとなって、自らも本格的に有機農業に取り組むようになった。そして、組合の仲間と先進地視察や農業改良普及センターの支援による研修を2年間かさねて栽培技術を向上させ、30戸の顧客への宅配産直で自信をつけて92年には岡山市の京橋朝市へ出店、さらに翌年には90戸の地域全体に呼びかけて、うち70戸で地元に青空市場を常設する。

 教職だった佐倉さんだが、「社会の常識に疎く、狭い範囲でしか物事を見たり考えたりしかできない前職であった私にとっては、(産直の仲間やお客さんとの)交流や会話の中で教えられることが多く、野菜づくりを通して『今、私は育っている』と実感している」と書いている。人を育てる職業であった人が、農業や産直のかかわりの中で「今、私は育っている」と実感しているというのである。

息子たちも帰り、現役当時より世間が広くなった

 長崎県高来町の森好晴さん(65歳)は、元JA大雲仙の営農指導員。現役当時は「産地間競争に負けないようにロットを持って、共販体制でやっていく」という原理でやってきたが、「それでは展望もないし、面白味もない。営農指導をやっていくなかで消化不良のようなものを感じ、もっと個性的に、よそにできないものをつくる、そして消費者とつながりを持ちながら喜んでもらえるものをつくる、そんな使命感のある農業に取り組んでみたい」という思いと、「人生はずっと現役でありたい。農業ならそれが可能」という思いで、定年を1年残して退職し、有名産地が少なく、また計画出荷しやすいニラの栽培を始めた。それも名水百選に選ばれた近くの轟峡の水を活用した「名水有機ニラ」。実家は非農家のため、85aの農地はすべて借地。だが翌年には周囲の定年仲間7名が加わり、合計3haに広がっただけではなく、その翌年には都会に就職していた森さんの長男(32歳)らメンバー4人の息子たちが帰ってきてともに取り組むようになった。

 定年帰農の父親たちが、都会に出ていた息子たちの仕事までつくり出したのだ。森さんは「サラリーマン時代と違って、異業種の人たちと交流が深まり、世間が広くなった感じがして喜んでいます」と書いている。

個性的労働・個性的自然・個性的生産物

 『定年帰農』はまた、たんに農家の跡継ぎの一方法としてではなく、農家出身以外の一般サラリーマンも含めた「人生80年時代の定年後の生き方」としても大きな反響を呼んだ。中高年サラリーマンを読者対象とするビジネス雑誌も、「週刊ダイヤモンド」(99年2月20日号)が特集「40歳から考える定年後」で、「週刊エコノミスト」が同年5月10日臨時増刊「定年後を生き抜く」で、「月刊プレジデント」同年6月号が特集「豊かな『定年後』を拓こう」で定年帰農をたて続けに大きく取り上げた。

 バブル経済のさなか、つまりそれらの雑誌の読者が青壮年だったころには日本農業の非効率性を攻撃・非難していたビジネス誌も、読者が定年期を迎え始め、「農業には定年がない」ということと、「企業における労働と農業における労働は本質的に違うのではないか」ということに気がつき始めたのだろう。

 企業労働は、集団作業の中で、均質的・画一的であることが前提とされる。だが若いときは均質・画一でも、年をとるごとに同一年齢でも心身の条件は異なってくる。一定の年齢を過ぎれば、画一的労働に適応しにくくなる。ところが農業は、仕事の場も、環境も、作業そのものも非画一的だ。他産業では「0.5」としか評価されない労働力であっても、農業では作業の環境や働き方、つくる作目やときに同一作目であっても品種や栽培技術を変えることで「1」であり続けることができる。

 客観的な労働力と労働条件の関係だけではない。企業労働と農業とでは、労働そのものも違う。個性的な労働が個性的な自然に働きかけ、個性的な生産物をつくる。それが企業労働と農業の本質的な相違である。

 哲学者の内山節氏は、次のように述べている。

 「ここで私は、次のような問いかけをしてみようと思う。それは、農山村ではどのような要因が交換不可能な人間をつくりだしているのか、という問いである。そのひとつは、労働、あるいは仕事が、その人の個性とともにある、ということであろう。ここでいう個性とは、その人の考え方であり、その人の判断力であり、その人のもっている技である。それは次のように問うてみればよい。たとえばある企業では千人の人が働き、またある村では千人の農民が農業をしているとしよう。この場合、経済の論理でみれば、1人の人間はどちらも千分の一の人間にすぎない。ところが労働、仕事の視点からみれば、前者は交換可能な労働者であり、後者は交換不可能な農民である。なぜなら後者では、農民1人1人の農の考え方、農とのかかわり方、技が同じではないからである。1人1人の農民の中に、他の誰かとは交換できない個性が存在している」(「自在な世界の創造 農と職人の時代を考える」99年8月11日付出版ダイジェスト)。

人間本来のポテンシャルが「発見」される高齢社会

 千葉大学法経学部助教授で医療経済・社会保障論、科学哲学を専攻する広井良典氏は、「高齢社会のビジョン」という観点から「定年帰農」に注目する1人である。その広井氏の高齢社会論の概略は以下のようなものだ。

(1)高齢社会をめぐる議論のほとんどは、年金や医療保険などの社会保障財政がパンクするとか、労働供給や貯蓄率が低下して経済が失速する等々、悲観的なトーンのものとなっている。しかし、「多くの人々が長生きできるようになった」という社会が、本来そう否定的なものであるはずがない。もっと根底的なところから、「そもそも高齢社会とは人間にとってどういう意味をもつものなのか?」という問いを掘り下げた「高齢社会のビジョン」はないのか?

(2)生物の一生は一般に「成長期→生殖期→後生殖期」という3つの時期に区分されるが、生殖を終えた後の「後生殖期」が際立って長いところに、生物としてのヒトの特徴がある。この後生殖期こそが高齢期(老年期)に他ならないのであり、たんなる生物という存在を超えた、まさに人間独自の意味がこの高齢期にあるといっても過言ではない。

(3)以上のような見方からすれば、高齢社会とは、人間の歴史の進化の帰結として「後生殖期が普遍化した社会」である、ということになる。それは、文字通り際立って人間的な社会、あるいは人間が本来もつポテンシャルが真に「発見」される社会であり、人類史、いや生命史の到達点ともいうべきステージとしてとらえられる社会ではないか(「長い老年期生かす視点を どうする高齢社会」朝日新聞97年7月21日付記事より)。

 さらに広井氏は、その著書『ケアを問いなおす』(ちくま新書)で次のようにも述べている。

 「産卵を終えると朽ちるように死んでいく鮭を考えてみよう。そのような場合、鮭の『個体』はたんにその遺伝子の道具でしかなく、産卵によって子孫(つまり遺伝子のコピー)を残すと自らはもはや役目を終わった存在となり、ただ死にゆくのみである」「『遺伝子からの個体の自立』とは、他でもなく、個体の寿命が『後生殖期』に及ぶことと重なっている。つまり個体が生殖後ただちに死んでいくような単なる『子孫を残すための機械』でなくなることが、この個体の『主体化』ということと実質的に重なっているのである」「『私が私である』という個体性は、社会性の発達と並行して強くなる。言い換えれば、『個体』がまずあって『社会性』が次に生まれるのではなく、『個体』性ということ自体が、社会性あるいは他者との関係性のなかで生まれる、ということである」「私たち人間においては、個体つまり『私』ということと、他の個体との『関係』や社会性ということが、他の動物には見られないかたちで強固にあらわれる。ここに、人間がかくも『私』というものにこだわり、また他人のこと、世間のことを『気にかける』動物であるかの理由がある」

 そのように考えると、子育ての任務を終えた人々が、それぞれの人生の総仕上げとして、「私」にこだわりつつ(個体性)、なお仲間やふるさとのコミュニティの中でその役割を発揮したいと考え(関係性・社会性)、「個性」的な帰農の道を選択する理由が見えてくるのである。

「団塊の帰農」時代がやってくる

 昭和40年前後に就職・進学で村を離れた「団塊の世代」があと7、8年で定年を迎え始める。農文協では『定年帰農』の続編として、5月増刊『定年帰農パート2 100万人の人生二毛作』を発行した。前号は戦前生まれの方々がほとんどだったが、『パート2』では、「団塊の帰農」コーナーをもうけた。そこには、ゆらぎ始めた終身雇用・年功序列の企業社会に自ら見切りをつけ、定年を待たずに50歳前後で早期退職、新しい生き方とコミュニティを求めて帰農した団塊世代の方々が登場する。

会社は撤退しても個人で挑戦・花栽培

 山口県大島町「周防大島元気村」の米沢功臣さん(49歳)は、外資系の石油会社に勤務していたが、90年におりからの多角化戦略ブームで豪州産切り花の輸入業務に携わることになった。オーストラリアへの苗の買い付けや成田空港での通関、委託農家の開発、全国の卸市場への営業と多くの業務をこなしたが、「個人的な関心から有給休暇を取って、仕事を通して知り合ったアジアの友人と海外花事情を視察に行ったりする中で、徐々に自分自身の中から何か動き始めるものを感じるようになった」。

 しかしバブルがはじけ、石油製品の輸入自由化で会社の本業が危うくなり始めたとき、切り花輸入業務から撤退の可能性が高いと判断、夢の実現に向けてスタートした。会社は撤退しても、自分は愛着のある仕事を続けると……。

 「花は生き物。つくづくそう思う。工業製品ではなく農産物なのだ。いっとき、鉄鋼会社や商社、石油会社など多くの会社が新規事業として花栽培に取り組んだ時期があった。労務政策としての余剰人員対策や高齢者活用の側面もあったと思う。現在はほとんどが撤退している。時間で働くことに慣れたサラリーマン気質ではとうてい良品はつくれないし、成功もしないということだろう。逆に、だからこそ個人で挑戦する価値があるのかもしれない」

 そして99年3月に30年勤めた会社を退職、父親の故郷でもある大島で5軒の農家から計1haの農地を借り、7名のスタッフ(高齢者)と鉢花栽培を開始した。

 「この島は高齢化率の高いことでは全国でも知られている。だがそのお年寄りたちが元気このうえないのも天下一品。50歳前後の私などここでは若造の部類で、地元の人たちの農業と暮らし方に対する足腰の強さ、知恵などとうてい私の及ぶところではない。現に今、私は7名の方と一緒に働いているが、皆さん、草取り作業や鉢花の枝のせん定など、はるかに私より早く上手だ。もとはミカン栽培、田仕事で長年鍛えた方たちなのだ。私が勝てるのは、理屈をこねるのと夢を追い続けることぐらいしかない……」

村の高齢者とともに雑穀産直生産組合

 企業のバイオ関連研究所に勤めていた嵯峨均さん(52歳)良子さん(40歳)夫妻が、神奈川県から北上山地、岩手県川井村に移住したのは8年前のこと。もともと研究職だったのに管理職に回され「部下を査定したり管理したりするのが心底辛くなった」とき、休日ごとにいそしんでいた畑仕事の魅力が急に大きくなってきたのだという。

 当初は野菜の宅配や有機米づくりに取り組んだが、もちろん収入はままならない。だが3年目の秋、転機がやってきた。山間高冷地の川井村では、お年寄りたちが自給用に細々とながら雑穀を栽培し続けていた。そのお年寄りに栽培技術を親切に教えてもらって多種類の雑穀を栽培、玄米だけでなく白米に混ぜてもおいしく食べられるようブレンドを工夫し、真空パックの「縄文物語」(商標登録)として宅配便産直や生協との産直で売り出したところ大ヒット。嵯峨さんの家の生産だけでは間に合わなくなり、村内のお年寄りたちに栽培を委託するようになったのだ。

 委託している農家はほとんどが60歳以上で最高齢は96歳。それまでは「もうやめたら」と子どもや孫に言われていた雑穀づくりが評価され、市場出荷より高く引き取ってもらえるので俄然はりきるようになり、昨年には26軒で農業法人「川井村雑穀産直生産組合」を立ち上げた。

 農業は自然を相手にその人の個性を発揮する仕事であるとともに、コミュニティの中で互いに働きかけ働きかけられる仕事でもある。そのコミュニティが自然への向き合い方を豊かにし、それぞれの個性を浮き彫りにする。企業は定年後も属し続けることのできるコミュニティではない。都市では居住地にもほとんどコミュニティはない。だからこそ、多くの人々は都市生活や企業労働の延長上ではなく、農業・農村の「関係性」の中に「定年後」を生きる希望を見いだすのである。

(農文協論説委員会)


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