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農文協トップ主張 1985年07月

「市場開放」で経済摩擦はますますひどくなる
ボン・サミットから考える

目次

◆農業をめぐる仏と日本の違い
◆国民が求めているのはまともな食糧
◆アメリカの高金利・ドル高の克服が解決の糸口
◆「質の経済社会」の実現を
◆自然 人間中心の産業構造への転換

 このたびのボン・サミットでは、ECの農業を代表して、農業保護の立場から「多角的貿易交渉」の開催に頑強に抵抗するミッテラン仏大統領と、レーガン米大統領を終始支持しつづけたわが中曽根首相とが、実にみごとな対照をなしていた。

 中曽根首相は、事前に市場開放の手を打ったことにより日本の名指しの批判を避けた、孤立し袋だたきにあうどころか、むしろ全体に「主導権」を握れたと、胸を張っているように見受けられる。だが、国民の立場から見て、本当に胸を張れるような成果があったであろうか。サミット後、わが国では市場開放策、内需拡大政策の論議が盛んであるが、われわれには、根本的解決を先送りすることによって、矛盾をより拡大しているようにしか見えないのである。

農業をめぐる仏と日本の違い

 今回のボン・サミットの経済面での大きな目玉は、「多角的貿易交渉」(新ラウンド)の一九八六年開始をとりつけることだった。新ラウンドとは、保護貿易主義の台頭を防ぐために自由貿易をより促進する新しいルールづくりをしようというもの。これが、ミッテラン仏大統領の強力な反対で、ついに八六年開始を明示できなかったのだ。

 この新ラウンドは、サービス、ハイテク(高度技術)、農業など、様々の分野をかかえているが、サミットに主導権を持つアメリカにとっては、その中でも農業が最優先課題であった。というのも、農産物はアメリカの最も強い分野でありながら、アメリカ農業は深刻な不況状態に陥っており、八六年中間選挙対策上からもレーガン政権の農業、貿易政策が大きな国内政治問題になっているからだ。そしてその際の具体的な標的は、ECの手厚い農業保護政策((1)価格低落を防ぐ買い支え、(2)輸入農産物への課徴金、(3)過剰在庫輸出への補助金)の打破におかれていた。

 このようにアメリカが新ラウンドの最優先課題としている農業に対し、ECの中でも農業国であるフランスが「農業をその交渉からはずせ」と真正面から対立したわけである。新聞はフランスを「保護主義阻止より国益優先」と評し、フランスの孤立を強調しているが、フランスの主張は、フランス一国のみならず、EC全体の、さらには発展途上国の利益をも代表している。「サミットの場では孤立したが、世界の孤児になったわけではない」というミッテラン仏大統領の発言は、負けおしみではない。そこには、農業に基礎をおく“独立国フランス”という哲学がある。

 イギリス、西ドイツにしても、工業製品の輸出伸長という面から新ラウンド開催に賛成はしても、アメリカの輸入農産物を受け入れる気など毛頭ない。両国共にECの農業保護政策のもとで、先進工業国でありながら食糧自給率を高めてきた。この二〇年間の穀物自給率をみると、イギリス五二%→七七%、西ドイツ八四%→九〇%と、着実に高めてきているのである。ちなみにフランスは、一一九%→一七〇%。イギリスも、一九九〇年には農産物の恒常的輸出国になるだろうと予想されている。

 ところが日本のばあいは、どうか。この間の穀物自給率は、実に八三%から三三%へ、五〇%も下がっている。そこで中曽根首相は? というと、「日本も同様に農業には関心がある」などと言いながら、フランスに対してレーガンと共同歩調をとることを促しているのである。西側の結束を訴えつづける中曽根首相に対して、各国のマスコミは「何か具体的な妥協案を用意しているのか」とその真意をめぐって関心を強めた(『毎日』5・4)そうだが、その答えはどうなのか。日本について言えば、去る四月、アメリカが関心をもつ四品目の市場開放を決定した数日後、主要産業界代表を前に説明したところでは、「農業も例外ではない」であった。林信彰氏によれば、この秋にも懸案の農産物一三品目が自由化されるだろうという。

 日本の異常な工業製品輸出の結果生まれた莫大な対米貿易黒字解消のために、三割しかない食糧自給率をさらに押し下げようというのである。ここには、農産物も工業製品も同一次元でとらえ、市場をどんどん開放し合っていけばよいという、エコノミック・アニマル的〈哲学の欠如〉が如実に現れている。

国民が求めているのはまともな食料

 農産物と工業製品を同一次元でとらえてはならない、というのは、世界の常識である。だからこそ、欧米の先進国は工業国でありながら、食糧の自給率を高く維持してきたのだ。日本ではなぜ常識が常識として通用せず、当たり前のことができないのか。

 いったい誰が農産物の自由化を求めているというのだろうか。国民の大半は、農産物の自由化を求めているのではない。総理府、NHKほか、様々のアンケート結果に見られるように、国民は食糧の自給を求めているのである。そして国民が要求しているのは、まともな食べ物である。輸入農産物のように、遠く海をへだてたところで、どんな農薬がかけられ、何が添加され、輸送の途中で何がまかれたかわからないような、安全性に不安のある食べ物ではない。“品質主義の時代”と言われるように、遠隔地の大量生産方式でとれた農作物ではなく、地元でとれた個性的な、新鮮な農産物を国民は求めているのである。「質」への要求である。

 工業製品のメーカーでさえ、多品目少量生産を大量生産システムの上にのせ、これまでの画一主義から「手づくり」まがいの供給に向かっている時代なのだ。まともな質の食べ物――、そういう農産物が供給されるような経済のあり方が、求められているのである。農産物の市場を開放し、外国の農産物を食べなければならない理由はどこにもない。

アメリカの高金利・ドル高の克服が解決の糸口

 食糧自給は世界の常識であるのに、なぜアメリカは農産物の自由化を押しつけるのか。それは、一つはアメリカが農産物の過剰をかかえ、深刻な農業不況をかかえているからであり、第二に、貿易が大幅な入超で莫大な貿易赤字を抱えているからである。そこで、世界の常識に反して、アメリカで最も強い競争力をもつ農産物を世界各国に売り込み、貿易収支のバランスをとり戻そうというわけだ。

 だが、アメリカの大幅の貿易赤字と失業、輸出不振の原因は、元をただせばアメリカ自身の経済政策にある。財政赤字がもたらした高金利がドル高を呼び、輸出競争力の低下と入超を招いているのである。つまり、世界の通貨の中でドルの価値がとびきり高く評価されているために、一ドルなら一ドルの値の輸出品が、海外の輸入国においてはずい分高い値段になり、値段の競争に負けてしまうわけだ。ドル高が、アメリカの輸出品の海外での競争力をことごとく弱めてしまうのである。逆にアメリカに入ってくる輸入品は、ドルの購買力が高いことから、アメリカにとってずい分安いものになり、どんどん入ってくることになる。

 そしてまた、高金利であるために、アメリカ国内の企業は資金繰りに四苦八苦し、投資が遅れて古い設備が更新されない。繊維、自動車、鉄鋼などがその典型で、それがアメリカの輸出競争力をまた落とすことになる。さらに、アメリカ農業が一種の恐慌状態にあるというのも、ドル高による輸出競争力ダウンの結果、大量の過剰をかかえたうえに、高金利での借金が農業経営を圧迫しているのだ。

 このような諸矛盾を呼び起こしている高金利、ドル高は自然現象ではない。そこには、アメリカの政策がある。つまり、アメリカの国家予算の三割(二五〇〇億ドル、絶対額では日本の国家予算の一・二五倍)という莫大な軍事費のなせる技である。軍拡が赤字財政を呼び、その赤字部分の穴埋めを市中から調達するために高金利政策がとられる。高い金利は、海外の過剰流動性を持ったドルを呼び戻し、ドル高を結果するという構造だ。軍事費のために教育、福祉の予算は大幅削減され、一九六〇年代のレベルに圧縮されつつあるというのに、それでもなお赤字財政をまぬかれないほどの大軍拡なのである。

 軍拡は何をもたらすか。産業構造の奇型化である。軍拡の進行の中で産業の構造も、ハイテク(高度技術)に傾斜し、従来からの産業は斜陽化してゆく。農業への補助金も大胆に切られる。人間の生活に身近な部分がどんどん削られ、産業構造そのものが軍事化してくるのだ。

 そして軍拡は平和をおびやかす。強大国アメリカが軍拡すること自体が世界の緊張を高めると同時に、武器の性能は常に最新鋭でなければならないとする軍事的要請は、武器をたちまちのうちに旧式化させ、その旧式化された武器の第三世界への売却も世界各地での紛争激化に一役買う。しかしアメリカは、紛争を必ずしも嫌わない。そこにアメリカが介入することにより、己れの政治的影響力を発揮し、そのことによって資源や市場(ばあいによっては基地まで)を確保する側面があるからだ。

 このような軍拡による高金利、ドル高が、今日のアメリカの諸矛盾の根本原因であることは、当のアメリカ自身がよく知っているのだ(『朝日』5・9)。にもかかわらず、自分で解決すべきことに手をつけず、他国に諸矛盾の解消策を押しつけるから、世界中が混乱するのである。アメリカが真先にやるべきことは、他国に農産物の売込みをはかり貿易自由化を迫ることではなく、軍拡をやめ、軍事費を減らすことである。

 ここでアメリカが何としても推進しようという「自由貿易」とは、実は〈強者の論理〉なのである。経済力の強い国が、強い競争力をもった己れの製品で世界の市場征覇を狙う。工業が未発達の、生産力の低い国々は、資源や食糧など、一次産品の供給や労働集約的産品の供給に、その産業を特化され、固定化される。弱小国を支配し収奪する〈強者の論理〉、それが「自由貿易」の歴史であったし、第三世界が力をもち始めた現代でも多分にその性格を残している。自由貿易主義でいくということは、絶えず争いが起きるということである。自由貿易は、その大義名分とは裏腹に、決して平和な道ではない。

 今や世界のGNPの一〇%を占める「経済大国」日本は、世界一のアメリカと共に「自由貿易」の道を歩き出した。中曽根首相が、ボン・サミットで農業の擁護を堂々と主張し、ECと組んでレーガン米大統領を変えるのではなく、終始支持しつづけたのも、それを意味している。

「質の経済社会」の実現を

 貿易摩擦は国と国との関係の問題だが、その根底にある一国の産業構造、経済のあり方を見直さなければ、問題は一向に解決しない。市場開放で黒字を削減するなどという数字合わせ的な対応では、問題が先送りされ、矛盾は激化するばかりである。貿易摩擦を解決し、国際的連帯にもとづく真に平和な世界を実現するには、各国が自らの経済のあり方をまともなものに変えることが必要なのである。

 経済のあり方をまともなものに変えるには、まず先進工業国、とりわけ日本が、効率よくもうかる産業のみに特化しバランスを著しく欠いた今日の産業構造を、農業を土台にすえ、人間にとって必要な産業がバランスよく配置された産業構造に変えることである。貿易というのも、輸出市場を拡大して無限にもうけるという発想を克服し、国内で生産できぬもの、生産しても不足するものに輸出入を限ることである。それが真の相互互恵を保証する。

 つまり、今日の経済成長を中心に据えた発想から、人間と自然を中心に据えた経済に根本的に転換し、「質の経済社会」をつくることである。どだい、高い成長というものは、無限につづくものではない。今、日本は、アメリカの予想外の成長によって輸出が進み、あるいはまた、ME機器など新製品の登場によって新産業分野の拡大があるから景気がよいが、いつまでも一国が貿易黒字を出しつづけることは許されないし、新製品の登場も、次の新製品の登場なしには必ずいきづまり、需要が衰える。成長が止まったとき起こることは、欧米に見られるような失業問題である。とくにME機器による労働の合理化効果は大きい。

 これに対し、「質の経済社会」に失業問題はない。なぜなら、経済効率にふり回されず、人間が必要とする「産業」に、人手を充分にかけることをモットーとする社会だからだ。その要に坐るべきは、農業であり、食糧自給である。幸いにして農業は、工業に比べて労働生産性が格段に低い。現代日本のように食糧を海外に全部依存せず、国内で自給するとなれば、大いに人手が必要になる。

 これまで日本は、食糧自給を放棄し、大量の農産物を輸入し、成長路線をひた走りに走ってきた。大量の輸入農産物の下での「過剰」によって農産物価格は低迷、下落した。あるいはまた、値段が安い分、規模の拡大でとりもどすべく挑戦して借金地獄に陥った。こうして、日本の農家は、困難な農業から農外就業へと押しやられ、農業から「失業」させられてきたのであった。山は荒れ、田畑は荒れ、農家の知恵は、資本の用意する農業資材に置き換えられた。そして「地域最低資金」ぎりぎりの安い労賃は、日本の輸出製品の競争力を強くする。これに対して、無限の経済成長路線を克服した社会では、この流れが逆転するのだ。

自然・人間中心の産業構造への転換

 そこでの産業の取り組みは、すでに見た国民の要求するまともな食べ物とマッチしたものになるだろう。これまでのように、化学肥料・農薬などの農業資材に全面依存し、産業はそこそこにして(農業からの「失業」)兼業に出るような農業ではなく、己れの地域自然の力を総合的に発揮させるような農業に変わるに違いない。つまり、作物をよく見、土を見、作物や土の要求を汲み上げつつなされる農耕労働が展開される。

 さらにまた、資本が提供する農業資材を、農家の観察に基づく工夫や手間に置き換えることは、資材の購入代の分だけ「工業」を縮小することであり、同時に、農業における創造の道はここにある。農業はもともと、老人・婦人も含めて、家族員すべてがそこにかかわっていける条件がある。老若男女、家族が協力して一体となり、山や田畑によく手を入れて自然を豊かにし、食糧自給をしてゆくこと――それが社会的に要請されるのが「質の経済社会」である。

 このような農業を社会の基礎におき、非農業の世界も効率中心ではなく、人間中心に再構成されてゆかなければならない。つまり、現在経済性がないとして軽視さけている諸産業=中小企業・地場産業などを振興し、教育・医療など公共的なものにも人を豊かに配置してゆく。

 こうして、経済の無限成長路線から、人間の必要に基づく「質の経済」に発想を根本的に変えることによって、バランスのとれた産業構造をつくれば、今よりずっと暮らしやすい社会が実現できるに違いない。成長のダウンを恐れるのは資本であって、我々ではない。むしろ「不景気」によって我々の生活はずっと暮らしよくなるのである。

 そして、世界の国々がこのように変わることによって、初めて国際的な連帯と平和も実現するのである。サミットはそのチャンスであったはずだが、日米首脳がとったのは、逆の向きだった。

 この発想の根本的転換を、首尾一貫して要求できるのは、農業とは何か、自然―人間の関係を身をもって知っている農家である。農家は国の経済政策の「被害者」であると同時に、自らの農耕実践と「質の経済」とを重ね合わせてとらえられる唯一の階層なのだ。ミッテラン仏大統領のごとく堂々と自己主張をすることだ。そこに実現される「質の経済社会」が、平和と豊かさを願う国民の要求と一致していることは言うまでもない。

(農文協論説委員会)

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