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農文協トップ主張 1985年08月

「高い安い」で米の値段を決めてよいか
日本人にとってお米とは何か

目次

◆お米は、「栄養源」ではない
◆すばらしい「お米健康食」
◆お米を食べる料理、加工の手法の豊かさ
◆自然と人間の豊かなつながり
◆お米で培われる味覚こそ文化の根源
◆いま守り発展させるべきもの

 米価の季節。毎年この時期がくるたびに、米の値段が高い、いや安いといった論議がなされます。そしてとくに今年は、厳しくなっている貿易摩擦とアメリカからの市場開放圧力のもとで、日本の米はアメリカの米の二倍もする、タイの米の四倍もしていると、日本の米の値段への批判の声が、いつになく強まっています。

 政府は、これらアメリカや財界の圧力に呼応する形で、また食管財政の赤字減らしを理由に、またまた米価据置きを押しつけてきました。外国の米に比べて高すぎる、食管赤字を減らさなければならない――まさに経済合理主義そのものです。

 しかし、食べものというものは、とりわけ日本の米は、安いの高いのという金の問題だけで扱っていいいものか?

経済合理主義でお米を扱う、こんな発想は、必ず大損失につながるのです。農家の暮らしにとっての損害だけでなく、国家的な大損失をもたらすものです。

お米は、「栄養源」ではない

 茶わんに盛られた一膳の御飯。このお米の値段は標準米ならおよそ三〇円、銘柄米でも五○円です。この一膳の御飯は高いでしょうか、安いでしょうか。

 ほかの食べものと比べるとハッキリします。たとえば、ジュース一缶は今一○○円。御飯一膳は缶ジュース三分の一本の値段です。こう見てくると、御飯がジュースより高いという人は、まず少ないでしょう。お米は安いと感じるはずです。

 御飯一膳三〇円は安い、この感覚こそが正常なのです。ことさら、ジュースと比べなくても、三〇円は安いと感じる。それは、お米がほかの食べものとはどこか違う食べものだと感じるからでしょう。

 お米は安い、どこか違う食べものだ、こう感じさせるのは、何でしょうか。「米は日本人の主食だ、生命の糧《かて》だ、だから大切なのだ」。これは確かです。しかし、主食だ、生命の糧だというだけで、「どこか違う」ということになるでしょうか。お米イコール主食、イコール生命の糧、イコール体の栄養源というふうに考えていったとき、「体の栄養になるものなら、他のものでもいい」ということにもなってしまいます。

 実際、これまで日本人のお米の消費を減らしたいと考える人々は、お米イコール栄養源とする発想で国民に迫ってきました。一昔前栄養学者から「米よりもパンのほうが体にいい」と、ろくに根拠もないことを盛んにいわれて、一日の一食をパン食に切りかえた日本人は多いはずです。これは、アメリカの小麦をどんどん輸入するための策動だったのですが、お米イコール主食、イコール栄養源という考え方によって、米よりパンが優れていると宣伝され、パン食の普及となったのです。それ以来の食生活の乱れと不健康化は、いまや誰の目にも明らかです。

 同じように、アメリカの米のほうが安いからいいと米輸入まで叫ばれる今日、お米イコール主食、イコール栄養源では同じ誤りをくりかえすことになります。

すばらしい「お米健康食」

 では、お米とはいったい何か。一昔前のお米の食べ方を見ると、お米が単なる栄養をとるための主食でないことがハッキリとわかります。たとえば、米どころ新潟県の一年間のお米の料理・加工のし方かは、ゆうに五〇種類を超すのです。まさに、米は御飯だけでなく、主婦の手によって千変万化するものであることがわかります。もちろん御飯が中心ですが、御飯も白米だけではありません。豆御飯、いもがゆ、いも赤飯、小豆がゆ、魚飯と、御飯は、畑のもの、山のもの、海川のものを取り込んで、多様に変化するのです。お米の価値をいちだん高める食べものとなるのです。

 さらに、御飯にもう少し手を加えると、魚と合わせて漬けて飯ずし、おにぎりにしょうが味噌をつけて焼くけんさ焼、黄粉をつけてほうの葉で包むほう葉むすび、もち米を笹の葉で包んで煮て黄粉などで食べるちまき、笹の緑、卵焼きの黄色など眼にもきれいな押しずし、笹ずしなどなど食べる楽しみはグンと広がり、お米といっしょに食べるものの種類も多くなります。

 さらには、もちや団子には、ヨモギ、クルミ、小豆、ゴマ、黄粉などなど、今から見れば「健康食品」といわれるものが、必ずいっしょになっているのです。

 お米は単なる栄養源ではない、といったのは、このように、米は主婦の手の内で千変万化するもの、そして、その土地のありとあらゆる食べものを呼び寄せて、より健康的な食べものをつくり出す器のようなものだということにほかなりません。まさに、「お米健康食」の世界です。

 日本型食生活が、いまでは健康的な食生活の代表のようにいわれていますが、お米のもつ健康食づくりの器としての優秀さこそ、その基礎にあったのです。だから、いま日本の米が消えたら、主食の確保ができず危険な状態となるばかりか、日本人にとっての健康的な食事づくりはきわめてむずかしくなってしまいます。

お米を食べる料理・加工の手法の豊かさ

 しかし、「それくらいなら外国の米でもいいではないか」という考えもなり立ちます。どこの米でも、それを上手に使い食べればいいわけですから、確かにそのとおりです。

 そこで大切なのは、お米は主婦の手によって千変万化するということです。右のような「お米健康食」は、それが健康にいいからとか、おいしいからとかの理由だけでできたのではありません。

 おばあさんの時代まで、農家のお母さんは、家の田畑やまわりの山川でとれたあらゆる食べものについて、どんな種類があり、どれだけの量があるのかを頭に入れて、一日一日台所に立ったものです。限られたものを、次の年にとれるまで切らさないように、あるいは、余ったものはよりおいしくたべたり貯蔵・加工するようにと、工夫をこらしました。

 こうした中から、今日の小昼は小豆入りの焼モチにしよう、明日は焼きおにぎりにクルミ味噌をつけよう、あさっては……と、料理・加工の手法を使いこなしたのです。こうして、お米を食べるための料理・加工の手法は実に多彩になったのです。炊く、にぎる、焼く、蒸す、漬ける、粉にして練って団子にする、焼きもちにする、野菜汁に入れる。このような手法は、家にある米を、クズ米も含めて、上手においしく生かし切るために生み出され、伝達され、使われてきたものです。

 だから、「お米健康食」の内容は、土地によって大きく異なり、さらには家によって微妙に異なるはずです。その土地、その家の自然と農業からの産物をフルに生かす形で、あらゆる手法が豊かに駆使されているのですから。だから、「お米健康食」の米はアメリカの米で置きかえることは、決してできないのです。

自然と人間の豊かなつながり

 さらには、お米を食べる豊かな手法は、その土地の産物だけによって決まってきたのではありません。たとえば、お米を使った保存食の代表、飯ずしについてみると、ただ米と魚があったからできたのではないのです。

 そこには、地域の気象など自然の条件があずかっていることも見逃せないのです。秋おそくにはハタハタがくる、お米がとれる。そしてちょうどこの頃に、乳酸菌が発酵するうえで雑菌がつかずほどよい季節になる。このタイミングを生かしたのです。

 お母さんたちは、漬物桶をきれいにあらってかわかし、この季節を待ち受け、米、魚という産物と、季節の環境条件と、さらには雑菌をふせぐ山の笹の葉とを、そっくり桶の中へ漬け込んだのです。桶の中は、土地の自然を取り込んで、微生物がほどよく繁殖する風土そのものです。ここから、おいしい食べものが生まれる。お米を食べる豊かな手法とは、このように、その土地の産物と自然を、微生物も含めて総結集し、いきいきとした生命を与えることにほかなりません。

 その土地の自然によって人びとが生かされ、人は自然にいきいきとした生命を与える。自然に生かされ、自然を生かす。この関係をつくってきたのが、お米を千変万化させるお母さんの料理・加工手法と、季節の動きなど自然の変化をとらえる観察の鋭さなのです。

 それぞれの土地に、自然と人間をつなぎ、好ましい関係をつくり出したのが、主婦の食事づくりであり、「お米健康食」はその象徴というべきものです。このような地域の自然とともに豊かに生き続ける、これこそが人間の文化そのものです。物質生活の豊かさや、自然をこわす工業技術が象徴する文明とは全く異質の、人間にとっても最も大切な文化です。

 だから、「お米健康食」の世界は、アメリカやタイのお米を使ってできるはずがありません。もしも、外国の米を主食として使うということになれば、そのような大切な文化の根源をなす営みが失われてしまうからです。

お米で培われる味覚こそ文化の根源

 大切なものが失われたあと、ポッカリとそこが空いたままになっているだけなら、まだ救いようがあります。大切さに気づいたら、取り戻せば済むからです。

 ところが、ふつう、大切なものがなくなったあとには、とんでもないものが、わがもの顔に居すわるものです。雑菌をおさえる役割をしていた笹の葉がビニールの葉っぱに変わるくらいならまだしも、食べものは有害性のある防腐剤入りのものになってしまうのです。化学調味料や着色剤入りの○○御飯が「お袋の味」になってしまうのです。「お米健康食」は、利益追求を第一義とする企業の工場に移ってしまうことになります。体に害をもたらす食品がますます氾濫することにつながります。

 そして、これは、かけがえのない生命をもった人間に必要な基本的な感覚を狂わせることにもなるのです。それは、味覚です。

 全国各地で、そこの「自然に生かされ自然生かす」形で、お母さんたちが千変万化させてつくり出した「お米健康食」。一つ一つが独自な味をもっています。それは季節の味であり香りです。田植えどきに新潟県のお母さんがつくるほう葉むすびには、ほう葉の香りがあります。それから、おむすびにつける黄粉は、「稲の花がよく咲くように」との願いが込められたもので、田植えどきの田んぼの匂いがあります。これらがまざりあった独特な風味を、このおむすびの味として舌は覚えるのです。

 小正月につくるけんさ焼は、その土地の味噌が炭火で焼ける香りと味を舌が覚えます。こうして、その土地の一つ一つの食べものの味と香りが舌に記憶として残り、地域の味を味わう全体的な味覚ができるのです。このようにしてできた味覚とは、その土地の農業と自然をよりよく活用して、安全で健康的な食生活を続けるための、基本的な感覚だといえましょう。自然と人間が調和して、自然も人間も豊かに健全になるのを支えるきわめて重要な感覚といってもいいすぎではありません。

 すなわち、味覚とは、まさに自然と人間のつながりのの象徴であり、人間にとって最も大切な文化の根源をなす感覚といえるのです。その味覚が、お米を千変万化させて楽しみ食べる主婦の料理・手法とともに、地域地域で家々で独自につくられてきたのです。

 これが、企業の生み出す画一的な味によって置きかえられ、しかも毒を毒として感知することもできない状態に、味覚がこわされることは、人間の文化の根源的感覚=生きるために最も大切なものを識別する感覚がこわされることにほかなりません。

 いま、家族の食事の雰囲気がなごやかな家庭には少年の非行が少ないといわれます。それは、人間にとって最も大切なことを感知する味覚が、幼児のころから家族の食事の中で伝わり育まれているからかも知れません。大切なことが大切なこととして伝わらず、まがいものや人間にとって害にしかならないものを押しつけられたのでは、敏感な子どもたちは大人社会にズレを感じ、反抗に打って出ることは明らかだからです。

 お米を家畜のエサ同様の単なる栄養物として考え、値段が高いか安いかのみを問題にする風潮、経済合理主義の発想は、文化の根源をなす感覚を狂わせることにつながるのです。そして、次代を背負う子どもたちの健康と、生きる意欲を奪い去ることにも通じるのです。まさに国家的損失以外の何ものでもありません。

いま守り発展させるべきもの

 「御飯一膳三〇円は安い、お米はどこか違う食べものだ」と思う感覚は、「お米はおいしい」と思う味覚とともに、これまでみてきたような、お米を食べることのかけがえのなさから生みだされているのです。自然と人間のつき合いの豊かさ!

 そしてこのことは、米をつくる稲作についても全く同じです。

 日本の自然は、雨が多く、また山が険しいために降った雨は急流をなして流れることが大きな特徴です。この激しい水の流れを豊かにたたえて、「お米健康食」を生み出す基盤が水田です。お米がとれるばかりでなく、水をたたえる水田は、水による養分の供給があり、また養分の保持力が高いために、地力の消耗が少ない、というよさがあります。そのために、稲ワラやモミガラは、畑の地力維持や他の利用にまわせます。ここに、畑を肥やし、あるいは家畜を飼い、農耕全体を豊かにしていくことが可能になります。

 こうして、水を生かす水田が大きな軸となって、それぞれの地域で、そこの自然条件にかなった農業が築かれていきます。

 この水田の価値は、一人農家だけのものではありません。いま、水田や畑、あるいは森林のもつ社会的役割として、水資源を保全する働き、洪水を防ぐ働き、空気を浄化する働きなどがクローズアップされてきています。そして、たとえば、水田が地下水を涵養する量は年間三九三億立方m、これは全国のダムの有効貯水量(将来建設する分も含める)の二倍の量だといわれます。また、水田が洪水を防ぐ働きは現在のダムの四倍に当たり、これをダムの建設・維持費に合わせて計算してみると、年間九六○○億円の貢献をしているとの計算もあります。

 つまり、水田は、人にとって害になる自然の作用(たとえば洪水)をも、やわらかく受けとめて、より安定した豊かな自然をつくり出しているのです。これは、お米を食べることが自然と人間のつながりの豊かさを表しているのと、全く同じことが水田稲作の中にあるということにほかなりません。

「お米はおいしい」と思う味覚の背景には、このような、自然と人間のかかわり合いの豊かさが横たわっているのです。豊かさにかかわり合う文化の営みがあるからです。

 いま米価運動に必要なのは、このかけがえのない営みが営々として続けられる条件づくりのために、米価がいかにあるべきかを考えることです。日本人の生活の未来を切り拓くために、米価はいかにあるべきかを考えることです。外国に比べて高いからとか、財政赤字だからとの理由で安くおさえることなどではない。人間にとって最も大切な文化の根源を守るには、お米を豊かに食べる食生活と稲作をさらに発展させるにはどうするかが、米価を決める基準でなければなりません。

 日本人にとって米とは何か。いまや、そこから米価の問題を考える時代です。

(農文協論説委員会)

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