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農文協トップ主張 1986年05月

「いじめ」に悩む子どもたちへ
まず大人が自然いじめをやめます

目次

◆「いじめ」という言葉をやめさせよう
◆大人の世界のほうに「いじめ」がある
◆子どもは大人のまねをする
◆自然の中で学ぶ「大切なこと」
◆「食べもの」は自然が生き人間がよりよく生きるしるし
◆反省を始めた大人たち

 「いじめられている君へ」

 こういう見出しで二月六日の朝日新聞は、全国の君たち小・中学生、そして高校生に訴えかけた。

 そこでは、いじめで自殺する子どもまで出るのを見て、朝日新聞のおじさん、おばさんたちは「どうしようもなく、かなしい。そして、なにかしなくてはいられない気もちになっている」。でも「しょうじきいって、まるで別のそだち方をしている君たちのことが、まだよくわかっていない」「だが、すこしずつおとなもしんけんになっている」。「いま君におきていることは、ずーっとつづくわけではない」。「つらいだろう。もう一日もがまんできないとかんじるくらい、くるしいときもあるだろう」が、ぜひがんばってくれることを「しんじて待っている」――といった内容の訴えだった。

 君たちが悩んでいるいじめについての、大人の本当の気持ちが、ここに書かれていたように思う。

 だけど私たちは、君たちのことがわかっていない、といい切ることができない。そういい切ることができないほど、私たち大人の悩みも深い、といったらいいだろうか。そのことをこれから君たちに訴え、いっしょに考えて欲しいと願って、この文章を書くことにしたい。

「いじめ」という言葉をやめさせよう

 まずはじめに、私たちは、このことを提案したいと思う。「いじめという言葉を使うのをやめよう」「大人が、いじめという言葉で君たちの世界を見ようとするのをやめさせよう」ということだ。

 なぜなら、「いじめ」という言葉を使うかぎり、大人たちはいつまでたっても、君たち子どものことや、いじめが起こる社会のことがわかりはしないからだ。そもそも、いじめということについて、大人はわからないという。それでいながら大人は、何かといえばすぐに、子どものことを「いじめの時代だ」とかいって、とにかく「いじめ」という言葉で説明したり、問題にしたりしようとする。

 結局、大人自身わかりもしない言葉で説明して、わかったような気持ちになってしまっていることが多いのだ。だから、いま子どものことを何でも「いじめ」という言葉で話し、「いじめ」という見方でみることを、やめてもらわなければならない。そうしないと、大人には、こどものことがいつまでたってもわからないからだ。

 問題はそれだれではない。「いじめ」という言葉を使うことによって、子どもは大人と別の世界をもっているかのように、大人は思い込んでしまう。「いじめは子どもの世界のこと」であり、大人はそれを困ったものだと見ている――こういう関係になってしまう。子どもと大人とは別々の世界に住んでいる、こんなことってあるだろうか? これが私たちの大きな疑問だ。実は、子どものいじめの前に、大人の世界にこそ、いじめがはびこっているからだ。残念ながら、「いじめ」という言葉は、大人の世界でこそ使わなければいけない。

大人の世界のほうに「いじめ」がある

 君たちは、アフリカで君たちと同じくらいの年の子どもたちが、食べものが食べられず、飢えてつぎつぎと死んでいった、というニュースを見たことがあるだろうか。このアフリカの悲しいできごとは、天気が悪くて作物が育たず、充分な食糧が収穫できなかったからだと、ふつうには考えられている。しかし、事実は、天気のせいだけではない。いちばん大きな原因は土地がどんどん悪くなっていることだ。土地が悪くなっているから作物がよく育たない。

 そして、その理由はつぎのようだ。日本などの先進国が、それらの国に輸出をどんどんするから、その国はお金が必要になる。お金をつくるために、これまでの畑に、日本などへ売るためのトウモロコシなどの作物をつくる。自分の国の人びとの食糧にしていた作物から、売るための作物に切りかえてしまうから、その国の人びとの食べものが足りなくなる。また、売るための作物をたくさんとるために、たくさんの化学肥料などを使うから、土地が荒れてく。畑やさらには森や山が、砂漠のようになってしまう。こうしてアフリカの国々の人びとの食べものはますますとぼしくなっていく。

 これが、アフリカの子どものうえ死の、もっとも大きな原因だ。そして、このことには、日本の工業製品の輸出や、農産物の輸入が大きく影響している。君たちは、社会科の授業で、日本は工業が盛んで、どんどん外国へ工業製品を輸出して、その結果、国民の生活が豊かになっている、ということを勉強しているだろうと思う。しかし、そのことと同時に、いやそのために、アフリカの国々などに飢えがおこっているという悲しい事実がある。

 私たちの生活の豊かさのかげで、アフリカの畑や、森や山が砂漠のような何も収穫できない状態になり、その結果子どもたちが食べものを与えられず、飢えている。

「いじめ」という言葉を使うなら、私たち日本人は、日本の大人たちは、アフリカの畑や自然をいじめ、そしてアフリカの子どもたちをいじめていることになる。自然をいじめ、人間をいじめているのが、私たち大人がつくっている社会のしくみなのだと、いま残念だけど、いわなければならない。

 そして、このことは、アフリカの自然や子どもたちとの関係だけではない。日本の国の中でも、「自然いじめ=人間のいじめ」はどんどん進んできた。大きな企業は、商品を農村に売りたいから、農家に借金までさせて、農家がお金を稼ぐための農業に変えるようにしむけてきた。また、そこで作る作物がよくとれるからといって、化学肥料や農薬を大量に使うようにしてきた。この結果、やはりアフリカと同じように、土地や自然が荒れ、作物がつくりにくくなった。そして、農薬による病気や、借金が返せなくて苦しむ人がふえてきた。

子どもは大人のまねをする

 私たちは、大人が「自然いじめ=人間いじめ」をやめないかぎり、子どものいじめはなくならないと考えている。大人のいじめをそのままにして、学校や地域に「いじめ相談所」をつくったり、いじめをなくす話し合いをしたりしても、本当の問題解決にはならないと思う。

 なぜなら、私たちが子どものころもそうだったが、子どもは、知らず知らずのうちに、大人の社会の「まね」をしているものだからだ。大人の「自然いじめ=人間いじめ」の、子どもによるまねが、いま問題のいじめだと私たちは考えている。

 私たちは、いま、子どもがまねをしても、子どもの世界が本当に明るく、お互いを大切にしあう世界になるように、大人の暮しをつくりかえなければならないと、考えている。そのために、「自然いじめ=人間いじめ」を大人がまず先にやめなければならない。子どもがまねしがいのある大人の世界をつくらなねばならない。

「まね」といわれると、君たちは不服かも知れない。子どもは子どもだ、大人のまねなどするものか、意味がない!と。

 しかし、これまで人間は、先にうまれた人びとの暮らしや考え方に習って、まねて育ってきたし、これからもそうだ。そして、いまの大人の世界ではみえにくいけれど、これから君たちが生きていくために、まねをして欲しいことは確かにある。

 その一つが遊びだ。子どもの遊びは、過去に生きた人びとが経験したことを、あらためて経験しなおしながら育っていくことだと思う。たとえば、君たちはカブトムシやクワガタに熱中したことがあるだろう。虫をつかまえるということは、遠い遠い人類の始まりのころの人びとが始めたことなのだ。そして、その中で、たとえばカブトムシは「あの山のあのクリの木やクヌギの木にいる」とか「つかまえるのは朝と夕方がいい」とか知恵を身につけた。これと同じことを、私たち大人も子どものころに経験したし、君たちも経験した。そして森の木の見わけ方や虫の探し方を身につけた。

 私たちは祖先と同じような経験=まねをしながら、自然から学んだわけだ。

自然の中で学ぶ「大切なこと」

 自然から学ぶ、このことを、私たちは尊いことだと思う。

 私の小学生のころの経験を紹介しよう。五年生ころだったか、小鳥をワナでつかまえて、飼うことに夢中になったことがある。馬のしっぽで輪をつくって、小鳥の足がそれにかかるとしまるようにして、ひもにゆわえ、その近くにエサをまく。毎日学校がおわるのが待ち切れないかのように、ワナのところに飛んでいったものだ。そして、ついにある日、あの羽をひろげたときの黄色が美しいカワラヒワがワナにかかった。

 私は、ワナからはずし、待ちに待った自分の友だちがきてくれたかのように、うれしくて両手であたためてやろうとした。ところが、そうしたとたんに、カワラヒワは手の中で動かなくなってしまった。私は、自分の思いが伝わらなかったばかりか、逆にしめ殺してしまったことが、何とも悲しかった。それっきり、小鳥をつかまえることはやめた。

 いま考えれば、そのとき、人間の勝手な思いは小鳥には通じない、小鳥には小鳥の生きる世界がある、それを大事にしなければいけない、ということを、子ども心に知ったように思う。

 たとえばこんなふうにして、人間は、自然の中に入っていき、自然から学ぶことをくり返し、祖先の時代から長い年月をかけて、自然とつき合う知恵をふくらませてきた。そして、自然をいじめずに生かし、そのことによって人間もよりよく生きるという暮し方、考え方を築いてきた。自然を生かす暮し方、考え方がないと、人類はこれほど長く生きつづけることはできなかっただろう。食べものも、着るものも、ほとんど自然が与えてくれるのだから。

 自然をいじめず生かすことは、人間が皆仲よく暮らせる根本だ。自然いじめがなければ、人間いじめもグンと減るはずだ。私たちは、第一にいま大人の世界に広がっている「自然いじめ」をなくす努力を、ねばり強くつづけたい。それは同時に、君たちやさらに幼い子どもたちが、自然とふれあい、自然から人間にとって大切なことを学ぶものを可能にするだろう。そのとき、いじめのまねではなく、もっとも価値のある先人たちのまね=経験ができるはずだ。

「食べもの」は自然が生き人間がよりよく生きるしるし

 それからもうひとつ、自然を生かし人間がよりよく生きる暮し方、考え方を伝え、経験するものとして、「食べもの」を大切にしていきたいと思う。

 私たち大人は、これまで、テレビコマーシャルに出てくる〇〇ハンバーグやスナック菓子を君たちに買い与えてきた。ついつい便利だから、子どもが喜ぶからと、そういうものに頼った食事になってきた。しかし、いま、このことはまちがいだったと思う。現在の私たちの食生活からは、自然を生かし人間がよりよく生きるというあり方が、急速に失われているからだ。

 私たち大人の「自然いじめ=人間いじめ」が激しさを増す前の、おばあさんたちの食事づくりを見ると、いま失われている大事なものはなにかがよくわかる。たとえば、おばあさんの大豆を使った食べものづくりをみてみよう。

 まず、畑に大豆をつくることから始まる。おばあさんは、大豆料理には、ミソもナットウもトウフもキナコもいろいろつくって、家族を楽しませたい。そして、大豆の品種には、ミソ用、トウフ用、キナコ用などいろいろあるから、それぞれの料理に向いた品種をいくつもつくった。畑には大豆だけでなく、いろいろな野菜もつくらなければいけない。そこで、つくりたい大豆の品種といろいろな野菜をどれもつくれるように畑の使い方やまく時期を工夫した。このとき、畑の土が悪くならないように、土がよくなるように、同じところに毎年大豆ばかりつくることをしないで、ほかの野菜と順序よくつくった。

 だから、おばあさんは、畑の土という自然がよくなることと、家族にいろいろな大豆料理や野菜を食べてもらいたいとの願いを一つにして大豆をつくったわけだ。

 そして、収穫した大豆で、ミソつくりは春先、納豆つくりは冬なら雪の下というように、季節を生かしてつくった。ミソにはコウジカビというカビがついて味をよくする。納豆は納豆菌という細菌がつくる。おぱあさんは、カビとか細菌とかの目に見えない生物が、よりよく働くように、ミソつくりや納豆つくりの季節や、つくる場所を決めた。ここでも、生物や季節という自然を上手に生かして家族が喜ぶ味をつくり出したわけだ。

 食べるときはどうだろうか。たとえば、豆腐をつくれば、家族皆んなでイロリのまわりに集まり、豆腐を竹ぐしにさしてイロリの炭火で焼いて、ミソでんがくにしてたべた。このときおばあさんは、大人には辛いニンニクをすり、ミソにまぜて豆腐にぬってあげた。そして子どもには、こってりまろやかな味のクルミ入りミソを豆腐にぬってあげた。畑を上手に使ってつくった大豆、ニンニク、クルミで、それぞれの好きなものをこしらえたわけだ。

 このように、おばあさんの食べものづくりでは、畑の土が生きる=いろいろな品種が生きる=大豆のほかの作物が生きる=細菌などの生物が生きる=季節の寒さやあたたかさが生きるというように、あらゆる自然がそれぞれの力を出しながら、つながりあっていた。そうすることによって、大人にも子供にも一人一人の体によく、好みにあいながら、皆んなが楽しい食事になっていた。おぱあさんの時代の食事では、このようなおばあさんの自然を生かす知恵や家族の健康への願いをも感じとりながら、「おいしい」と思って食べていたわけだ。

反省を始めた大人たち

 いまの○○ハンバーグのおいしさとは、大きなちがいがありそうだ。私たち大人は、「自然いじめ=人間いじめ」をすすめる中で、食事を、おばあさんがつくったような食べものから、○○ハンバーグのようなものにおきかえてしまった。おばあさんの代までつづいた、自然を生かし人間を生かす暮し方と考え方を、君たちが経験したり身につけたりできないように、おおい隠してしまっていた。

 このことに、いま大人はようやく気づき反省し始めている。そして、何とかして、人類が長い年月つちかってきた正しい面、つまり自然を生かし人間が生きる暮し方と考え方を、食べものの中に見つけ出し、つくり出していきたいと考えている。

 いま、保育園でも、小中学校でも、高校でも、そして家庭や地域でも、自然を生かし、子どもたちと自然がふれあう場をつくろうとする人たちが出てきている。また、食べものの大切さをとりもどし、君たちに伝えようとする人たちがふえてきている。その呼びかけにぜひこたえてほしい。

(農文協論説委員会)

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