主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食農ネット 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 1990年10月

「有機農業」の核心はイナ作を守ることにある

目次

◆有機農産物は必ず安全でおいしいか
◆「生きている土」の本体は粘土である
◆土の本体=粘土がおかしくなれば有機物は生きてこない
◆水田が日本の土の若さを維持してきた
◆水田が荒れれば畑も野菜もおかしくなる
◆農業はリサイクルを超える

 コメの輸入圧力が強まっている。一方、消費者の間では「安全でおいしい」食物を求めて「有機農業」への関心が高まっている。

 コメの輸入と有機農業、実は大いに関係がある。有機農業の大方の流れは安全でおいしい野菜や果物を求めることであり、イナ作と切り離されがちなのが実情だが、これでは有機農業はホンモノにならないと私たちは考える。

 イナ作でも有機農業を進めようといっているのではない。もっと本質的な問題である。土の側から考えてみたい。

有機農産物は必ず安全でおいしいか

 まずはじめに、いわゆる有機農業で必ず「安全でおいしい」野菜や果物ができるか、考えてみよう。

「安全でおいしい」とは、まず農薬使用量の少ないものということである。安易な農薬利用を戒め、また輸入農産物のポストハーベスト農薬の危険性を告発するなど、有機農業を求める主張は食べものの安全性を高めるうえで大きな力を発揮している。だが、ではそういう農産物をどうつくるかとなると、有機農業の一般イメージとして、有機物と名のつくものをたくさん入れようということになっている場合が多い。しかも化学肥料の代替として有機物を使うという発想が強いから、量が多くなるし、肥料的効果を期待するとなると鶏ふんとか豚ぷんなど、チッソ分の多い家畜ふんが重宝されることになる。入手もしやすい。

 だが、それで「安全でおいしい」作物が必ずできるだろうか。

 ごく単純化していえば、「安全でおいしい作物」とは、収穫物に過剰なチッソが含まれていないものである。コメはチッソ(タンパク質)が少ないほど粘りがあってうまいとされているし、イもやビートでは収穫物中にチッソが多いほどデンプンが少なく品質が悪い。野菜や果物にしても、チッソが多いと腐りやすく日もちが悪く、味も悪い。

 安全性の面では、硝酸態チッソの多少が問題になる。

硝酸態チッソを多量に蓄積した牧草やトウモロコシを食べた牛が中毒をおこすことはよく知られているが、人間にとっても硝酸態チッソの多いものは、よいとはいえない。そして、こうしたチッソの多い収穫物になるような生育は、やはりチッソ過多の不健康な生育であり、病気にかかりすく農薬が欲しくなる。

 こうした問題は有機農業でも起こりうる。有機物といえども、土の中に入れられると、微生物に分解され、そのチッソ分はほとんど無機のチッソとして吸収されるからだ。とくに家畜ふん尿などチッソ分の多い有機物を多用し続けると安全性低下のおそれがでてくる。現に有機農産物と称する野菜の硝酸含有量を調べたところ、一般よりかなり多く硝酸が含まれている野菜が少なくなかったという話もある。ことさら有機物を入れず、低チッソ低水分で高糖度、高ミネラルの野菜や果物つくりをめざす。有機物はむしろよけいな水分やチッソを与えるものとして敬遠される。

 みかんでは、土層深くまで有機物が多く養水分が十分に供給されるような肥沃な条件では水っぽいミカンができるとされ、いかにチッソや水の切れをよくするかが課題になっている。

 収穫物によけいなチッソ分がないことが課題だとすれば、有機物の多用が安全性にも品質向上にもつながるとは必ずしもいえないのである。

 実は、このことは農家なら、しぜんに気がついていることである。家畜ふんをたくさん入れて「有機農業」と称するよりも、ほどほどにして速効的であとくされない化学肥料と組合わせたほうがつくりやすいし、品質がよいものができることも農家は知っている。イネつくりで廐肥を入れすぎると生育は過繁茂になり、病害虫が多く、チッソの多いまずいコメになる。野菜の場合でも、廐肥を入れすぎては病気が多く品質不安定になってしまう。

 化学肥料が悪で、有機物が善で、悪を善におきかえればそれですむという問題ではないのである。

「生きている土」の本体は粘土である

 化学肥料が悪で有機物が善というのではなく、有機物には有機物独自の働きがある。ゆっくりした肥効が得られることや微量要素の供給、土の団粒化の促進、微生物の繁殖を促す効果などが、その効果としてあげられる。

 だが、いつでもどこでもこの有機物の効果が発揮されるだろうか。

 まず有機物の中身の問題がある。たとえば、未熟な家畜ふんのようなものでは土を団粒化させる効果は低い。この有機物の中身の問題は土そのものの問題である。

 土そのものとは、非生物としての土、無機物としての土である。有機農業というと、土の有機的側面、生物性ばかりが表にでがちだが、いうまでもなく、土は有機と無機(土そのもの)とで成り立っている。無機と有機がどう組合わさるかによって、土の全体としての働きは変ってくるのである。そして現状の土の問題は、有機のほうではなく、無機物としての土そのものにあるように思える。

 無機物といっても、土はタダの物質ではない。土は電気を帯びた物質であり、それは土を構成している粘土の働きによる。粘土とは〇・〇〇二mm以下の細かい土の粒子であり、この細かい粒子が電気を帯びていることにより、土の中でさまざまな反応や養分の移動がおこり、土が機能する。この土の電気的な働きこそ「生きている土」の本体というべきものである。

 粘土はふつうはマイナスの電気を帯びており、このマイナスの電気に由来している。だから、ケイ酸(有効ケイ酸)が多い土ほど、マイナスの電気が強く保肥力の大きい土だということになる。

 ところが、現状の石灰を多用し多肥栽培してきた畑、あるいは家畜ふん尿を多用してきた畑では、この粘土の働きそのものがおかしくなっていることが考えられる。そこには二つの問題がある。

土の本体=粘土がおかしくなれば有機物は生きてこない

 一つは、この粘土のマイナスの電気を石灰やカリ、苦土、ナトリウムなどが占拠してしまい、粘土の働きが低下してしまうことである。化学肥料が少なくても、カリやナトリウムの多いふん尿を多用すると同様なことが起こりうる。

 こうした土ではチッソの肥効をめぐってやっかいな問題がおきる。肥料、あるいは有機物として施されるチッソ(プラスイオンのアンモニア)は、粘土のマイナスの電気が他の養分で占拠されているため行き場がなくなり、土壌溶液にあふれでる。そのアンモニアが根から吸収されるとどうなるか。アンモニアは野菜などにとって毒性が強いものであり、それを下毒するために野菜は大急ぎでそれをアミノ酸やタンパクに変えようとする。その結果がヒョロヒョロっと軟弱に伸びた姿である。また、アンモニアが吸収されると石灰の吸収がおさえられ、土の中に石灰がタップリあるのに石灰欠乏がでたりする。

 一方、微生物の活性が高い場合は、あふれたアンモニアは微生物によって硝酸に変わり、大量の硝酸が土壌溶液に溶けだす。それが濃すぎると濃度障害で根がやられ、それまでいかない場合は硝酸のぜいたく吸収がおこる。できた収穫物はチッソの多い水ぶくれの品質の悪い安全性の低いものになる。

 そして、もう一つの問題は、石灰多用やふん尿によるナトリウムの蓄積などにより$が上がると、粘土そのものがこわれてしまうことだ。石灰によりphが上がるとケイ酸がどんどん溶けだし、流亡してしまうからである。粘土のマイナスの電気の担い手であるケイ酸が流れて少なくなれば、当然粘土の働きが低下する。土の老化である。

 そして問題なのは、粘土そのものの働きが悪化した土では、有機物の働きも発揮されず、むしろマイナスの面が大きくなることである。

 有機物を入れても、なかなか団粒が発達してこない。団粒構造とは、粘土と粘土を有機物(腐植)がつなぎあわせてできるものだが、粘土そのものがおかしくなっているので、団粒になりにくいのである。有機物が多いので、一見土は軟らかくフンワリしているが、その土を水に溶くとドロッとなる。団粒が発達していず、住み家が狭められエサだけが多い状態ではカビがのさばり、それが病原菌であれば、土壌病害に悩まされる。アンモニアをつかむゆとりが土になければ、有機物といえどもそのチッソ分は土壌溶液にあふれ、品質低下の要因にもなりやすい。

 粘土の働きが悪ければ、有機物の力も生きてこない。

水田が日本の土の若さを維持してきた

 今、土つくりの課題は、粘土の電気的力の強化、回復にある。ケイ酸が少ない老化した土なら、有機物を多用するより、粘質な山土を客土するとか良質の粘土資材を入れたほうが、よほど土はよくなるだろう。

 そして有機物利用の課題としては、粘土の働きを回復すること、土を若返らせることが重要になる。具体的にいえば有機物による有効なケイ酸の補給であり、これにより粘土を活性化させることである。こうなると有機物ならなんでもよいということにはならない。

 実は、日本の伝統的な有機物利用は、このケイ酸の供給という面でもきわめてすぐれたシステムであった。

 有機物といえばワラや落葉などのケイ酸の多い植物質が主体である。鶏ふんや豚ぷんなども時には利用するが、それは堆肥の腐熟促進や肥料的効果をねらったもので、土を活性化させる主体はやはり植物性の有機物である。

 夏の果菜類のウネに敷ワラを行なうと、そのワラの下の土は団粒がよく発達する。ワラ(雨にあててないもの)はケイ酸が多く、それが雨によって溶けて土に入り、土の粘土の活性を高め団粒化を促す。山の落葉も水辺のヨシやカヤ、野のススキなどもケイ酸分が多いが、これらも有効に活用される。オカボなどのイネ科作物はケイ酸の吸収が旺盛で、下層に流れたケイ酸をひき上げ、堆肥などとして畑にもどされる。

 そして、田んぼそのものが巨大なケイ酸供給地であった。

 温暖多雨の日本の土では、有効態のケイ酸が流亡しやすく、力のある粘土が生成されにくいといわれている。土が老化しやすいということである。それでもなお高い生産力を誇ってきたのは、水田農業があったからである。

 日本の河川の水は世界の平均と比べるとカルシウムなどの養分はかなり少ないが、ケイ酸だけは明らかに多い。そして、林地や、養分が溶脱しやすい畑から流れるケイ酸を集める働きを引き受けたのが水田である。

 イネ一作に使われる水が反当一五〇〇tとすると、その水から約三〇kgのケイ酸が水田に供給されるという。水から供給されるケイ酸と土壌のケイ酸をタップリ吸収して育ったイネの稈やモミガラはケイ酸が豊富である。イネは一作で反当九五kgのケイ酸を吸収するというデータもある。それらのケイ酸はやがて田畑に入れられ、粘土の活性化、土の若返りに役立てられる。

 莫大なエネルギーが注ぎ込まれてつくられた水田は、日本の土を守る装置としても重大な役割を担っている。

水田が荒れれば畑も野菜もおかしくなる

 日本の畑作の原型を地力の面からみると、ヨーロッパなどとは全くちがうことがわかる。ヨーロッパの畑作は畜産との結びつきを基本にしているが、日本では山・原野と水田と畑の三つが深くかかわっている。それは、たえずケイ酸を供給し、土の若さを維持するシステムでもある。それこそが、日本の有機農業の原型といえるだろう。

 その中心に水田・イネつくりがドッカリすわっている。なかでも野菜つくりは、田畑輪換や水田裏作での野菜つくり、栽培でのワラの巧みな利用など、水田と密接なかかわりがある。ハウス園芸にしても、水田裏作からはじまったもので、イネと組合わさっていた当初は、連作障害も問題にはならなかった。水田化によって土にはケイ酸が供給され、余分な養分もたまらず、若さを維持することができた。

 その伝統は今でも息づいている。安定した生産を続けている農家はおよそ、イナワラとかモミガラとかを大事に使っている。ことさら「有機農業」と力まない、その地に応じた有機物利用が行なわれているのである。

 水田があり山がありというベースの中ではじめて日本の有機農業は成りたつ。水田が荒れ、山や原野との結びつきがなくなれば、土の老化は進み、畑はいよいよ養分過剰になり、安全でおいしい野菜はできにくくなるだろう。水田との結びつきが強い日本の野菜園芸に、ヨーロッパ流の畑と畜産の結びつきを、しかもその表面的な形だけをマネしてとり入れようとしても、ムリがあるのだ。

 ただしこういったからといって、家畜ふんそのものが悪いというのではない。家畜ふんの処理と利用にむけてさまざまに工夫が積み重ねられ、新しい利用も確立しつつある。それは、日本の土を若返らせるシステムの中に、家畜ふんをうまくなじませようとする営みである。有機物への過剰な期待とは別の次元で、農家は有機物とのかかわりを研究し続け、そうした努力も加わって、日本に新しい有機農業が成立していくだろう。

農業はリサイクルを超える

 水田を中心とする土の若さを保つ巨大なシステムは、有機農業でいわれるところのリサイクルとはかなり意味がちがう。リサイクルというと廃棄物を土にもどすという観念が強い。具体的には家畜ふん尿とか人ぷん尿とか都市ゴミを土にもどすという考えである。だが、果たして農家の田畑はそんなものなのか。

 これらの有機物を森にかえそうとはだれもいわない。森に施せば、チッソが供給されて木々は軟弱に育ち病気にも弱くなる。森の生態的なバランスがくずれるのである。それなら、田畑ならよいのだろうか。

 たしかに自然土壌とちがって、田畑は人間の有機物利用が加わって守られる。しかし、そこには、先に述べたように田畑の作物と周囲の植物を基本にした土の若さを保つ有機物利用のシステムがあるのであって、このしくみをこわすような外部からの有機物は、畑を悪くする。

 農業は、山の水が流れて田を潤すように、季節の変化が作物を育てるように、母岩が風化し植物と出合って土ができるように、大きな流れの中での営みであって、あっちのものをこっちにもってくるといったリサイクルのしくみは、その一部にしかすぎない。リサイクルが肥大すると、その流れそのものがおかしくなってしまう。

 消費者が有機農業をいうなら、日本の農業が育ててきた土が若返るしくみを現代に引き継ぐことを援助することこそ基本ではないか。田んぼを守れということこそ、農家の有機農業を支える焦眉の課題である。「安全でおいしい」野菜や果物を食べるためにも、コメを、水田を守らなければならないことを、農家は今、声を大にして消費者に伝えなければならないと思う。

(注)ここでいう有機農業は世間一般に見方・イメージとして成立しているそれであって、特定団体の有機農業を示すものではない。

(農文協論説委員会)

前月の主張を読む 次月の主張を読む