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農文協トップ主張 1991年12月

いま必要な「システムキッチン」を超える「台所システム」

目次

◆囲炉裏端の思い出
◆キッチンと台所の違い
◆昔は男の出番も多かった
◆システムキッチンは台所を進化させたか
◆超システムキッチンを農家の手で
◆農家らしいエコロジー、農家らしいフェミニズム

囲炉裏端の思い出

小さい頃の料理というとあなたはどんな情景を思いうかべるだろうか。山形県で伝統食を再現し記録する活動に携わっておられる、ある農家の主婦はこんな思い出を語ってくれた。

 「……『木の葉豆』というのは田植え明け、つまりやせるほどの長い重労働の後の『植え上げ振舞』に作る。餅と一緒に、田植えを手伝ってくれた親戚や近所の人たちに配るのだが、囲炉裏に大きな炒り鍋を掛け、豆を炒って、それをあの大きなホウの葉にくるんで持っていく。これを再現した時、にわかに、囲炉裏のそばで豆の炒り上がるのを見ていた小さいころの情景を、まるで美しい絵を見るように思い出した。太子講様の『でこ餅』は私の大好物だった。硬めに炊いたうるちのごはんをすりこぎで餅状にし、『きりたんぽ』のように太めの串にさし、囲炉裏のぐるりで焼き、くるみ味噌やごま味噌をつけてさらに焼いて食べる。炉の真中の鉤に掛けた大鍋には味噌仕立ての大根汁が煮たっていて、それをお椀にとり、汁を飲みながらでこ餅を食べる。八人きょうだいがそれぞれに『二本食べた』『三本食べた』と食い意地を張り合う。そしてかたわらでつぎつぎに焼いている母の姿……」

 あなたが四十代より上の方なら、きっと同じような原体験をお持ちのことだろう。会食の場は囲炉裏まわりで、火が中心になる。やはり火にはなにかしら心をなごませるものがあるのであろう。母親は忙しく立ち働いていたかというと、もちろんそういうこともあるが、案外どっしり腰かけていたりもする。

キッチンと台所の違い

 農家にとって台所とはどういうものであったのか。それはこんにちの都会の「キッチン」とはつくりもちがえば、そこでの立ち居振舞もかなりちがっているように思える。

 まず家のなかで、どこが「台所」でどこが「食堂」なのか判然としない。かまどのある土間から囲炉裏にかけて、料理空間とでもいうべきスペースがあって、さまざまな下拵えや煮炊きが行なわれていた。保存や加工ということでは庭や蔵、小屋も大事な料理空間である。いや農家にとっては素材の調達から台所仕事がはじまっているといえる。山や川、田畑は台所に直接つながっていた。

 つまり、広くは素材を調達する山、川、田畑といった地域の自然があって、屋敷まわりの庭や蔵・小屋で加工や保存、下拵えが行なわれる。そして家のなかの囲炉裏やかまどで煮炊きがなされる。たとえば味噌をイメージしてみよう。畑の豆を収穫・調製する。庭で大豆を煮て味噌玉をつくる。天井に吊す。かびがはえた味噌玉をつぶして味噌を仕込む。切り返しをする。季節の野菜とともに汁に入れて調理する。ここでは地域の自然とともに、時間もたたみこまれている。料理は山、川、海、田畑……その地域の空間と時間を凝縮する営みとなっていたのである。このようなしくみ(と場所)を「台所システム」と呼ぶことにしよう。

昔は男の出番も多かった

 こうした「台所システム」に老若男女、そして、その家の人だけではなく、近所の人びとも参加した。

 昔の農家では男衆は酒ばかりくらっていて、女衆だけがお勝手で忙しく立ち働いていたようなイメージがあるが、これは必ずしも正確ではない。ハレ食をはじめとして、結構、男の出番は多かった。また、遊びがてらの子どもの働きも見逃せない。

 たとえば、香川県の讃岐平野では田植えが終わったころのどじょう汁は男が料理した。女子衆はお相伴である。このあたりでは、どじょうは産卵期の六月から七月にかけてが一年中で一番うまいという。そして汗を流した田んぼ仕事の疲れをとるにはこれが一番である。どじょう汁は共同作業や寄り合いでもやるし、各家々でやるときも「今日はうちでどじょう汁を炊くぞ」と隣り近所、親しい家にふれ歩く。つまり村の人びとが参加する共食の場なのである。

 男衆は子どもたちと「じょれん」を下げ、泥だらけになってどじょうをとってくる。この間に女子衆は夏野菜や油あげを用意する。夕方になると庭にかまどが据えられ、大釜に湯がたぎり、どじょう、野菜、うどんの入った汁で舌つづみを打つのである。もちろんそれをさかなに冷や酒を汲み交わすわけだが(『香川の食事』より)。

 個々の家の「台所」に閉じられていない、一連の広がりをもった「台所システム」が、家族と村びとが働き交流する場を保証した。

 こうした特別な場面でなくても、鶏をしめる、うどんを打つ、餅をつく、などなど、男の仕事は枚挙にいとまがない。かつて「台所システム」においては、女ばかりでなく、さまざまな人間が参加する余地があったのである。

システムキッチンは台所を進化させたか

 それに対して最近のキッチンはどうか。

 厨房設備はユニットキッチンからシステムキッチンヘとどんどん豪華になっている。以下は大阪府岸和田市の主婦松田和代さんの一文の引用である。

「この間、電力会社の最新のシステムキッチンを見てきた。ボタン一つで流しの上の水切り棚がおりてくる。食器洗い機、全自動洗濯機、乾燥機が流しの横に組みこまれているのは当然のことながら、そのL字型の流しにかこまれるようにアイランドキッチンがある。島のように独立したグリル部分である。焔を立てない安全な電磁調理器があって四角いフライヤーもセットされている。揚げもの専用のグリルである。使用済みの油はコックを抜くと下の方に流れて容器に入る仕掛けになっている。フライ、バーベキューから出る脂をふくんだ煙は、下方に流れる習性があるので、そのグリルの両端にはボブベンチレーターがついていて、煙や匂いをただちに吸いとってしまうようにできている。もちろん、上方にも換気口が大きく口をあけて煙を吸いとる。このシステムキッチンの値段は一三〇〇万円である。」(「現代農業」11月臨時増刊『あたりまえの食事』24頁)

 最近のシステムキッチンにはこのほかにディスポーザーというのもついていて、これは残飯を細かく砕いて水と一緒に流す仕掛けである。

 システムキッチンは大変便利には違いない。すべての操作がワンタッチでできる。洗いものも完全に自動化されている。台所が煙や油で汚れることも少ないから、手入れが簡単だ。

 しかし、ここで描かれているほとんどの機能は驚くべきことに、洗うこと、わけても台所そのものの美観を保つことに向けられている。つまり、料理をおいしくつくることとは何ら関係ないのである。これが第一の問題点である。

 第二に、システムキッチンには大ごしらえの機能がない。泥付きの野菜や尾頭つきの魚を捌くというよりも、調理済みの食品をあたためたり、きれいな野菜を切るイメージだ。その点ではファミリーレストランと同じく、下拵えのすんだ材料を調理、配膳する最終段階の舞台にすぎない。素材を選べないのである。

 そして第三に、システムキッチンは華麗な舞台ではあるが孤独な舞台である。システムキッチンだけではないが、最近のキッチンは子どもが入りにくい仕掛けになっている。まず作業をする高さが高い。七五センチとか八〇センチとかになってしまう。動線を短くということで、ふたりの人間が並んで立つスペースがない。結局、主婦が背を向けて、孤独に取り組むしかないのである。その意味では男も排除している。

 立ち働きの姿勢を想定し、動線を引いてモノの配置を考える−これは台所改善運動以来の考え方だ。しかしもともと日本の台所仕事は立ち働くばかりでなく、とくに下拵えに関わる部分は座ったままで行われた。すり鉢で胡麻をすりおろす、かつお節を削る……みな座っての仕事である。そして、そこに自然なかたちで子どもが入り込む余地があった。キッチンは「台所システム」のもっていた教育機能も退化させたのである。

 このように、システムキッチンは台所の機能を豊かにしたのではなく、.下拵えや保存・加工、さらには教育といった多様な機能をそぎ落としてきたのである。

超システムキッチンを農家の手で

 それでは、われわれはどうしたら「台所システム」を取り戻せるであろうか。

 坂本廣子さんの『台所育児−一歳から包丁を−』という本が評判になっている。いまふつうのお母さんは料理は料理として孤独に取り組み、それとは別に育児をしようとする。坂本さんは調理のプロセス全体で子どもときちんとつきあうことで、台所を育児の場にしてしまった。これは「台所システム」という場がもっていた総合的機能を回復する試みのひとつといえよう。

 もうひとつは、台所の形そのものをかえていくことである。

 いま都会でも家庭菜園や市民農園を楽しむ家が増えているが、そんなとき困るのが台所の融通の効かないことである。いまの町場のキッチンでは泥付きのダイコンを五本もらったら、もうお手上げなのである。そこでさきほどの主婦松田和代さんは理想の台所は土間風の台所だという。

 「土付きの大根をポンとほうりこんで処理できて、そこで思いっきり調理をしたいのだ。水で流せるタタキ。ガスコンロを一つ置いて、油がはねても煙をもくもく出しても、お魚のウロコが飛び散っても平気な空間。」(前掲書)

 そして、実際に、阪神沿線の駅近くに住む松田さんの知人はこのような台所をもち母親ゆずりの甕《かめ》や壷をいっぱいもって、そこに野菜を貯蔵しているのだという。

 昔のままの農家の台所でいいとかいうことではない。近代的な調理器具をどんどんいれて、合理化できるところは合理化すればいい。ただ、その場合、「台所システム」の機能を縮小する方向ではなくて、より豊かにする方向で合理化を行ないたい。擂《すり》鉢や甑《こしき》、蒸籠《せいろう》、臼、甕といった道具が消えていくのは仕方がないとしても、その機能そのものは残しておきたい。土間や囲炉裏をなくすだけでなく、それを代替するスペースをつくらねばならない。そこに、狭い意味の調理だけでなく、保存や加工−食の営み全体を視野に入れたシステムキッチンがはじめてできあがるのである。

 それはまた、個別の農家ですべて完結していなければならないというものでもないだろう。保存や加工のある部分は共同化されていい。いま盛んに行なわれている、農協の農産加工施設での味噌や漬物つくりは、こうした社会化・共同化された台所(の機能)としてとらえられよう。そこにかつての村づきあいとは別の、共同と交歓の場が保証されるのである。

農家らしいエコロジー農家らしいフェミニズム

 そして台所は生命を感じさせる場所でありたい。いくらきれいでも、無機的で匂いもしない台所というのは何かそらぞらしい。魚の血が飛び散り、野菜の泥がはねる−それが料理というものではないだろうか。きれいな台所はそのようなナマの営みをどこかのだれかに押し付けている。いまはやりのエコロジーというものも、そのようないのちの連なりを身近なところで感じつづけ、次の世代へと引き継ぐことから始まるのではなかろうか。

 そして、このような営みを家族みんなで役割をになっていくことで、農家の嫁さんも生き生きしていくにちがいない。都会のフェミニズム(女性尊重主義)は女性を家事から解放しようとした。農村のフェミニズムはそうではなくて、家事をより豊かにし、女性のみならず老若男女が家事にかかわるものでありたい。

***

 かつての「台所システム」を今日的に実現する農家の「システムキッチン」、それはいま商品化しているシステムキッチンのようなチャチなものではなく、食事も人間関係も豊かにするような超本格派になるであろう。そのような「システムキッチン」を農家とデザイナーの協力でぜひつくろうではないか。

〈参考にした本〉

●松田和代「台所は礼拝堂じゃないもっとワイルドなほうが楽しい」「現代農業」11月臨時増刊『あたりまえの食事』

 引用したように、都会で伝統食にこだわってきた主婦の目からの台所観が述べられている。

●山口昌伴「システムキッチンは機能的か?」「現代農業」11月臨時増刊『あたりまえの食事』

 ネパールの原初的な台所とシステムキッチンの機能を比較。同著者の『台所空間学−その原型と未来』(建築知識社刊)は、日本や世界の台所の多様性と変遷がわかっておもしろい。

(農文協論説委員会)

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