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農文協トップ主張 1992年01月

「エコロジー思想」の開祖安藤昌益没後230年を記念する
道義に基づく国際政治の確立を

目次

◆農文協はなぜ昌益思想の普及に力を入れるのか
◆高度経済成長の3つの歪みを直視した昌益
◆「グローバルに考えローカルに行動する」先駆者
◆国際化時代によみがえる昌益の思想

 江戸時代の中頃、人びとから「守農大神」と尊称された一人の思想家がいた。その人の名を安藤昌益という。

 農文協は、一九八二年にその安藤昌益の現存する著作物のすべてを復刻し、現代語訳を付した全二二巻の『安藤昌益全集』を刊行した。昌益没後二二〇年の記念事業であった。

 それから一〇年、今年は没後二三〇年である。その記念事業として、農文協はいくつかの事業を行なう。

 まず昌益の主要論文を英訳した“ANDO SHOEKI Selected Writings”の刊行で、これはアメリカの出版社ウエザヒル社との共同出版である。

 つぎに、昌益思想をめぐる国際シンポジウムの開催。これは、東京ではなく、昌益ゆかりの地、現在の青森県八戸市で開きたかった。その願いが、市長をはじめ地元の各種の団体に受け入れられ、本年十月十七日、八戸市公会堂で「昌益国際フェスティバル・イン八戸」が行なわれることとなった。アメリカのアジア学会会長・シカゴ大学教授テツオ・ナジタ氏をはじめ、海外からも多くの昌益研究者が参加する。

 また、隣国の中国では、九月二十三日から山東省の済南市で中華全国日本哲学会主催の「昌益没後二三〇年記念日中共同シンポジウム」が開かれるが、農文協は山東大学東方研究室の要請を受けて、このシンポジウムの開催を支援している。

農文協はなぜ昌益思想の普及にカを入れるのか

 安藤昌益は、日本の農家が生んだ世界で最初の偉大な「工コロジー思想家」である。昌益は今を去る二八九年前(一七〇三年・元禄十六年)、現在の秋田県大館市二井田の農家に生まれた。文字どおり「日本の農家の子」である。昌益の直系子孫である安藤家は今日も二井田の農家として健在だ。

 昌益は生まれが農家であるだけではなく、「直耕」という昌益思想独自のキーワードに示されるように「土」の思想家である。ものをつくる勤労意欲を土台にすえた「百姓の思想」なのである。

 さらに大事な点は、晩年、昌益が生まれ故郷の秋田に帰って昌益思想に基づく活動を展開した点である。現代風にいえば、都市文化人であった人間が老後故郷に戻って、地元のために「文化運動」をしたのである。

 昌益のこの老後帰省「文化運動」に感化された農民たちは、伝統的な宗教行事を廃止したり、昌益を「守農大神」として称える石碑を建てたりした。江戸時代の日本の農村ではこのような躍動する思想的営為が営まれていたのである。

「守農大神」とは、二三〇年をへだてて、いかにも今日的な表現ではないか。昌益は農家に生まれ、農家の立場に立って思想を形成し、晩年ふるさとに帰って、「むら」のための「文化運動」を推進した。昌益は世界で最初の、医=健康と食と農を基本にすえた「エコロジー思想」を形成した。農文協が守農大神=安藤昌益を記念する理由はそこにある。

高度経済成長の三つの歪みを直視した昌益

 科学の発展していない、生産力が低い江戸時代に環境問題が発生しているはずはなく、そういう時代に「エコロジー思想」が形成されるはずもない、とお考えの方もおられよう。

 社会が高度経済成長をする時、古今東西を問わず公害問題は発生する。江戸時代の初期、元禄までの一〇〇年間、日本はまさに高度経済成長の時代であった。江戸時代の初めに約一〇〇〇万人であった日本の人口は、一○〇年後の元禄期には三〇〇〇万人に急増している。耕地もまた、三倍増したと推定される。昌益は一七〇三年生まれ、江戸開府は一六○三年、つまり江戸開府一〇○年目に昌益は生まれているのである。

 江戸時代初期のこの異常な高度経済成長が健康と食と農に歪みをもたらさないはずはない。およそ二〇〇年後の「昭和元録」と呼ばれた時代と同様である。昌益の思想は、江戸初期に高度経済成長のもたらした「自然と人間の間柄の歪み現象」を直視し、その原因を根源まで掘り下げて追求することによって、巨大な「エコロジー思想」として形成されたのである。

 昌益が直視した大きな「歪み現象」は三つあった。

 第一の「歪み現象」は医療の歪みである。名医であった昌益は、同業の医者の「もうけ主義医療」に徹底的な批判の矢をはなつた。高度経済成長の時代は「もうけ主義」の時代である。「もうけ主義」にはなじまない医療も、高度経済成長の最中には「業」としてもうけを追求するようになる。

「今の医者は、貪り取ることしか考えていない。医者よ、あなたは本当に医者だといえるのか。それとも薬屋なのか」。医者が薬でもうける「もうけ主義」は、江戸時代初期の高度経済成長の中で生まれた。その最初の批判者が昌益である。

「自然の気行を知らないで治療をおこない、完治した者がいたとしても、それは医術や薬効のせいではなく、その人にそなわった自然治癒力が旺盛で病を圧倒し、自然に治癒したにすぎない。こうした患者は薬を用いなければ、もっと早く完治したであろう。薬を用いたから、完治するのが遅れたのである。さらに虚弱体質の病人は投薬のため軽症は重症となり、重症の者は日をおかずに死亡する」

 薬公害に対する批判の目は医師昌益の「エコロジー思想」の根底となるものであろう。医師昌益は身体と医療の関係をつきつめつつ、「エコロジー思想」の険阻な道に踏み込んでいったのである。

 昌益が直視した第二の「歪み現象」は鉱業公害である。江戸時代の日本の主な輸出品は、銀・銅・金などの鉱産物であった。銅は南アジアでは、鋳鉄・細エ物の原料となり、さらにアムステルダムに運ばれ、ヨーロッパ経済に大きな影響を与えた。江戸時代の鎖国政策というのは、人の出入りを制限した管理貿易体制であって、物の出入りは活発に行なわれ、オランダ、中国を通じて、世界経済とつながっていたのである。

 輪出に刺激されて、鉱山開発が各地で行なわれた。鉱山地では急激に人口が増加し、牧歌的農村はたちまちにして、喧騒・乱脈の奴隷的労働が出現し、山師、金名子、掘子や大工、炭焼を中心に、食いつめ者、切支丹、牢人などや、さらには博徒、遊女らの流入によって、都市的退廃と乱脈が忽然として農村の一角に出現したのであった。医師であった昌益は、そこに発生した病気についても知っていたのであろう。

「金属は土や岩石の中にあって、地面を固め、大地を清らかにし、流れを澄まし、人間の皮膚や骨や内臓を守っている。決して破壊してはならない。採掘を進めてゆけば、山はもろくなり、空気は濁り、人間は病気がちになる。きれいな水は流れてこず、山は崩れやすく、植物は生えず、川は土砂で埋まる。地震になれば、以前より揺れる」

 鉱山地に発生した公害現象を、科学のカを貸りず、思想のカだけでかくの如く正確に総合的に把握した昌益の「工コロジー思想」の水準は極めて高いものであった。

 第三の「歪み現象」は、もうけ主義農業による農業生態系の破壊である。

 江戸時代の高度経済成長は、農産物の商品化を急激に進行させる。江戸近郊の畑作地帯では、大豆のような雑穀栽培から、養蚕のための桑畑に作目の転換が行なわれた。今日流にいえば、もうかる作目への急激な選択的拡大である。輸出商品としての需要が多い絹織物の増産が図られたのである。そのため都市では大豆が不足し、大豆の産地は遠隔地に移った。例えば、昌益が二井田に帰郷する以前の居住地であった青森県の八戸市でも、焼畑によって大豆が大増産された。焼畑の跡地にはワラビやクズといった地中に澱粉を貯える根茎の植物が繁茂する。それを常食する猪がふえる。結果として猪が異常繁殖をし、焼畑の根茎を食いつくすと、人間の農作物を襲う。商品経済という新しい経済システムによって、既存の生態系が破壊され、そのツケが人間にまわって、飢饉をもたらしたのである。

 一七四九〜五〇年の猪による兇作は一万五〇〇〇石の被害を生じ、三〇〇〇人の餓死者を出した。この兇作は「猪飢渇」(いのししけかじ)と呼ばれた。

「グローバルに考えローカルに行動する」先駆者

 昌益が直面した三つの「歪み現象」は、江戸時代初期の高度経済成長が生み出したものである。その点で、現代に相通じるのである。昌益はこの日常的な「歪み現象」の原因をその根源までつきつめていく。現代のわれわれが直面している「自然と人間の間柄の歪み現象」をその根源までつきつめていくと、近代合理主議思想――経済合理主義思想・科学主義思想にいきつくが、江戸時代に、歪みの根源をつきつめて昌益がたどりついたのは、儒教・仏教・道教・神道・漢方医学など当時の学問のすべてであった。それらを徹底的に批判する格闘の中で「自然真営道」=今日の「エコロジー思想」に到達したのであった。

 重要なことは、昌益思想の特徴がごく日常的諸現象を「人類の歴史」と「全世界」をふまえて思考している点である。倒えば昌益の最後の著作と思われる「稿本自然真営道大序巻」の第二段では「どの家にもあるいろり」をつきつめて、天地へと論理的に展開させている。この思考方法は、今日のエコロジー運動のスローガンになりつつある「グローバルに考え、ローカルに行動する」運動の思考方法と共通する。つまり、「ローカルな問題をグローバルに思考する」思考方法である。昌益の思考方法と、現代のエコロジー運動の思考方法は交差しているのである。だからこそ、昌益の思想は極めて現代的なのだ。

 昌益は「儒」の中国、「仏」のインド、「神」の日本と、当時の全アジア文明を批判する。昌益はグローバルな見地に立って自己の思想を形成した。この昌益の江戸時代における思想的挑戦こそ、今日「世界に貢献する日本」が立ち向かわねばならない課題なのである。決して「PKO」や「コメの自由化」が課題なのではない。

 昌益はグローバルな立場に立って江戸時代日本の高度経済成長による「歪み現象」を克服するために、次のように提言している。

国際化時代によみがえる昌益の思想

 「五穀も小粒だがたくさん取れ、金・銀・銅・鉄などの金属も木材や薪木なども国内の需要を満たし、人々が症状に応じて服用するのに必要な薬草をまかなうことができ、外国からの輸入に頼らなくても、すべて国内で自給自足が可能である。

 人々が農耕や機織に励みさえすれば、収穫も上々で衣食の不足はなく困ることはない。したがって、外国から入りこんできた世迷い言の邪教を破棄しさえすれば、明日にも飢饉・冷害・旱魃・兵乱などといった災害の永遠にない、自然に恵まれた平安な住みやすい国にすることが出来る」「でたらめな教え(今日でいえば経済合理主義や科学主議)にだまされて迷い、願望ばかりが募って、人々に本来そなわっている清浄な心を見失い、真実の心を曇らせてしまった。そのため人々の心には欲望が渦巻いている。こうして、人のねじ曲った心に生じた気が吐きだされ、それが天地を運回する正常な気の運行を損ね、自然界の根源までも汚染する。そして、本来ゆがんだところのない自然の循環が、人間の妄欲から生じた邪気によってゆがめられ、本来の運回ができずに暴発して、気の運回が狂い乱れ、大雨・大風・洪氷・旱魃・冷害・凶作・流行病・兵乱など、思いもよらない災難を招き、混乱の絶えない国になってしまった。

 人々が欲に溺れ、歪んだ心が災難を誘発し、それがまた人々をさいなむ。飢饉や病気などの悩みが絶えないのは、すべて人の欲心がひき起し、それが人々に帰ってきたものであり、自然本来の姿などでは断じてなく、そもそも外来の邪法に心を奪われ、欲に溺れ、心が歪んでしまったためである。

 したがって、こうした外来のでたらめなイデオロギーを廃絶すれば、明日にも人間本来の自然を尊ぶ心が取り戻され、この国もまた、悩みのない自然の恵みのままに栄える本来の姿に戻ることが出来よう」

 昌益の「統道真伝五 万国巻」の一部を現代語訳で長々と引用した。農家の方々には、はるか二五〇年の時代をへだてているこの昌益の主張が素直に理解できるのではなかろうか。

「外来のでたらめなイデオロギーを廃絶すれば……」などといっているからといって、昌益を排外主義的国粋派などと思ってもらっては困る。

 同じ「統道真伝五 万国巻」で、東夷国(アイヌ人の国)について「松前藩の侵略が始まる以前は収奪ということもなかった。しかし和人の侵略や収奪が始まれば、蜂起して戦うのは当然のことで、これはいっさいアイヌ側の責任ではない」といい、日本の侵略性と、それに対するアイヌ人の反乱の支持を明白に打ち出している。今日流にいえば昌益は国際派なのである。

 さらに「万国巻」のオランダの項では、オランダを「無事ノ国」「無乱ノ国」と絶賛し、その民主的な国家制度や一夫一婦制の婚姻制度、その産業や科学技術が称揚され、「漢・竺・和三国ノ及ブ所ニ非ズ」と賞賛している。昌益ほ江戸時代中期の日本にあっては破格の国際派であったといってよいであろう。

 *

 今年は昌益没後二三〇年の年である。昌益の「自然真営道」の思想=「エコロジーの思想」を世界にひろげたい。

 人間の生命の糧である基本食糧までも、もうけ主義の経済原埋にゆだねようとしている国際政治・国際経済の流れを「自然真営道」の「道」に基づく、「エコロジー思想」の哲学に基づく、国際政治・国際経済の流れに変える努力をすることこそ「大国日本」がなさねばならない真の国際的責務ではないのか。

 国際政治・国際経済の基本に、利害ではなく「道」をすえるべき時代が、ポスト東西対立の時代なのではないか。

 先進国はすべて近代の歴史の中でそれぞれに世界を分割し自己の支配下においてきた。その支配が後進国諸国の農業を歪め、経済の基礎を歪めた。そうすることによって自分たちの国を繁栄させたのである。今日の経済先進国といわれる国々はその「先進」を、後進国の犠牲によって手に入れてきた。それぞれの先進国が、それぞれ犯した後進国に対する罪をつぐなう道義的立場から、後進国に対する経済援助を行なうことを基本とする国際政治・国際経済の流れを実現する方向に向かうことこそがこれからの国際政治・国際経済の基本路線にならなければならない。

 昌益没後二三〇年に寄せて、われわれのなすべきことを論じる結果となった。よきお年を。

(農文協論説委員会)

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