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農文協トップ主張 1994年12月

自信喪失の食生活から脱出するために
ひろびろと大らかな伝統の食の現代化を農家、農村からの産直で

目次

◆近所の農家と郷里の知人に支えられて
◆伝統食文化は江戸期から昭和30年まで続いた
◆体が信号を送らなくなると食感覚が混乱する
◆地域の自給率、家庭の自給率を高めよう

近所の農家と郷里の知人に支えられて

 いまの日本人の食生活のおかしさについて考えてみたい。すこし唐突かもしれないが、まず、筆者自身の食歴について述べる。食歴とは、一人の個人が生れ落ちて以来どのような食べ物をどのように食べてきたかというほどの意味である。

 私は昭和七年に東京の西郊に生まれた。ほんの一時期を除けば、ずっと東京で暮らしている。私の育った家の周辺には、まだ畑がたくさんあって、小学校には農家の子供も大勢いた。

 三年生のとき(昭和十六年)に、小学校は国民学校と名を改め、その年の十二月には太平洋戦争が始まった。しかしこのころはまだ、食料事情が悪化することもなく、我が家の食事はいたって平穏につづいていた。変わりばえのしない日々の連続ともいえるが、食卓にのぼる惣菜類は、季節のめぐりをよく感じさせてくれたし、正月や彼岸、祭など、暮らしの節々には、決まったご馳走が律儀に現われた。

 朝、床の中で目がさめると、ごはんの炊ける匂いがしている。まな板でなにかを刻む心地よい音がしている。起きあがって顔を洗い、茶の間に入ると、ちゃぶ台という座り机の食卓があって、すでに銘々の飯椀、汁椀、箸が配られ、まん中にドンと漬物の大皿があった。夏ならばナスとキュウリのぬかみそ漬け。冬ならばハクサイの塩漬やダイコンのタクアン漬。ちゃぶ台の脇には夏でも冬でも火鉢があって、それが、みそ汁の大鍋を置く定位置になっていた。

 みそ汁は、食卓に季節を運ぶ主役であった。根菜類の多かった冬から、サヤエンドウの香りで突然、春が訪れる。夏を告げるのはナス。なぜかわが家では、ふだんはタテ切りで、ときに輪切りとなり、輪切りならばすりごまの入った濃厚な味だった。秋はエダマメ。いまのようなノッペリとした皮肌ではなく、毛むくじゃらで、サヤのまま沈んでいる。毛の間に粒みその大豆の小片がからまって、口中でサヤから豆を引き出すと、その粒の舌ざわりが濃い土の香りのする豆によくなじんでいた。秋深まれば、さりげなくネギが登場する。

 これらの野菜は「初物もぎをしたから」と近所の同級生のいる農家が届けてくれたものだった。タマゴも同様に“地場産”だった。学校への出がけ、ときたま母がランドセルの脇に風呂敷を結び、小銭を渡した。帰りがけ、道筋にあっていつも鶏の声のする養鶏場に入っていくと、鶏たちは一斉にこちらに首を向ける。小銭を渡すと、新聞紙を広げたすみにタマゴを五つならべ、左を折り右を折り、先を手前に折ってはさむと、一〇個入りの、体裁のよい包みができた。

 私の父母はともに海辺育ちだった。父は外海、母は内海。父の田舎から客人があると、ピンと背骨を伸ばしたブリや、無造作に竹かごに入れられた伊勢エビがみやげだった。母の里からはハマグリとかワタリガニとかが届いた。父は母を井戸端に呼んでこれらの到来物の始末にかかる。始末とは乱暴ないい方だが、父のやりかたにはこの語がふさわしい。伊勢エビの背を左手につかみ、右手で角の一本を折り取り、肛門から腹中深く押し入れる。クルクルと回しながら引き出すと、それで腸は裏返しに抜かれていた。背の皮ははずすが、あとは出刃包丁で一気に輪切りである。これをみそ汁にしてしまう。椀にはプチプチとはじけんばかりの白いエビの肉が盛り上がり、汁にはエビみその橙色がただよっていた。

 子どもの私には、この豪快な食べものに恐れをなしたが、季節の流れに乗ってかわるふだんの食卓と、突然の賑わいを呼ぶ食卓のどちらもが、父母や兄弟とこの地で暮らす日常の安心を、ひろびろと大らかに、私に感じさせていたのだった。それはのちに、六年生のときに学童集団疎開に行ったとき、いやというほど認識してしまったことである。

伝統食文化は江戸期から昭和三十年まで続いた

 『日本の食生活全集』という全五〇巻に及ぶ全集がある。大正から昭和初期にかけての、全国三〇〇余の家族の一年の食事のめぐりを聞き書きによって記録しためずらしい本だが、その三〇〇余の家族をえらぶにあたっては、各都道府県ごとに、川筋に沿って海辺、平地、山間とたどり、また江戸時代の版籍をも考慮して決めたという。地形の風土と歴史の風土の双方を考えに入れての選択であった。

 大正から昭和にかけて若妻として台所に立った各地の古老から、何回にもわけ一年以上の時間をかけて聞き書きした膨大な記録。さらにその古老の周辺の人々の協力によって実際にその惣菜をつくって写真に収めた貴重なカラーグラフ。それらを読み、見て、つくづくと感じることは、地域ごとの素材や調理の方法は、まるでちがっているにもかかわらず、当時の食べものをめぐる暮らしの成り立ち方は、私の経験した昭和十年代の東京のそれと、大筋ですこしもちがっていないということだった。

 私が過ごした昭和十年代の食生活と『日本の食生活全集』にくりひろげられる各地各様の“暮らしのなかの食”の共通性は、つぎのようなところに、はっきりあらわれていると思う。

 第一に、それはいつも季節とともにあって、日々淡々とつづく食事にリズムとめりはりをつけていた。季節は食材の旬としてあらわれるし、また、地域のさまざまな年中行事の祝いの食にもあらわれる。

 第二に、食べることは暮らし全体のなかに溶けこんでいて、「食生活」「衣生活」というふうに分けられる暮らしの一部ではなかった。私にとって学校に行くことはタマゴを食べられることでもあった。

 また、いまのように、栄養学にとりかこまれて健康ばかりを意識するのでもなく、新しい調理の技をとり入れて珍奇な味を競うものでもなかった。カルシウムを摂るために小魚を食べたのではない。その地で小魚がたくさん獲れたから食べたのだ。

 第三に食材は、その地場のものであふれていた。自分が作り、獲ったものを食べる農家、漁家なら、それは直接の自給だったが、都会にあっても、近所の農家、父母の田舎の産物がたびたび食卓にあらわれた。私の子ども時代には、遠いところから運ばれてきたものが日常の食べものであったのは、シャケとリンゴぐらいのものである。

 第四に、食べものにはみな、どこかの風情のようなものが感じられた。味があり音がある。だから、食べものはただおいしいというのではなく、滋養とか滋味とかいう言葉がふさわしいようなものであり、人と食べものとの間には、いつくしみ、いつくしまれる関係があった。カレイの煮付けを食べるときには、ひととおり身を食べ終わると、沸き立つ湯をかけて、ヒレの中に米粒が並んだように詰まっている“鉄砲玉”と読んでいた肉を食べた。頭の骨もほぐして身をほじった。そして、その湯を飲む。心安まる温かさだった。

 このような煮魚の食べかたを、『日本の食生活全集』の『山口の食事』の巻に見つけて、ほんとうにわが意を得た思いだった。むぎやきという魚をそのようにして食べると病気をしないといわれ、だから、湯をかけて汁を吸う食べかたを“医者殺し”というのだそうである。

 私が“わが意”を得たのは『日本の食生活全集』の記述と私の食歴とが重なり合ったということよりも、大正から昭和にかけての日本人の食べる暮らしの質素さ、おおらかさにある。

 “大多数の日本人の普段の食事は、本格的には江戸時代の延長線上にあり、それは(戦争末期と敗戦直後を除いて)一九五〇年代後半(昭和二五〜三〇年)までつづく”と石毛直道氏(国立民俗学博物館教授)は述べている。そして“『日本の食生活全集』は、その江戸末期以来、地域=郷土に連綿と続いた伝統的食事文化の、質量ともに充実した歴史資料として貴重であり、”“さらにその伝統的食事文化を復活させるなり現代風にアレンジするなりして今に生かす試みのためにも格好な手引きになる”とも記している(「出版ダイジェスト」'93年・3・1号)。

 たしかに、昔の暮らしを単なる壊古にしてしまわずに、今、食べること全般に自信をなくしているといわれる日本人の暮らしの明日につなげることこそが大切である。

体が信号を送らなくなると食感覚が混乱する

 私の食歴にもう一度戻る。

 国民学校の六年生で長野県に学童集団疎開をしたときから敗戦後数年間は、飢えを経験した。その間のことはここでは書かないが、一つだけ。

 飢えていても食べもののうまい、まずいの区別はつく。野沢菜の根よりカブの方がうまいし、口さみしくてなめる絵具は黒より白がよい。これは“飢えていても”ではなくて飢えているからこそなのかも知れない。乏しい食べものに舌がとぎすまされている。飽食の時代のいま、人々の舌はなまって、なにがおいしいのかも、わからなくなった。

 飢えの時代がどうやら過ぎて、金を出せばなんでも食べられる時代が来た。しかし、その金が自由にならなかったから、食事はつつましかった。

 昭和三〇年代のころ、私は食べることで得難い経験をした。きつねうどんを食べる。東京のきつねには、ふつうの油揚げとホウレンソウとナルト一切れが乗っていた。箸を割って、うどんを二筋三筋食べ、さてそれから箸が向かうのが油揚げのときと、ホウレンソウのときとがある。日によってちがうのだ。箸が先に油揚げに行くときは体がアブラっ気を欲しがっているのだし、ホウレンソウのときは野菜を欲しがっている。ビタミンだの脂肪だのと面倒なことは抜きにして、体がちゃんと箸に信号を送っていたのである。近ごろはこの信号がうまく働かなくなってしまっている。街なかを歩いていての昼どき、なにを食べたらよいのか迷ってしまうのは、歳のせいとばかりはいえないだろう。

 さて、母がやや長く患ったので、わたしがオサンドンを引きうけたことがある。

 わが家のみそ汁は、だしは煮干でとる。煮干を何匹いれたらよいかと母に聞くと、煮干を持ってこいという。持っていくと「その大きさならば五匹でいい」という答え。なるほど。ということは、小さめならば七、八匹なのだなとすぐにわかった。

 澄まし汁のときはカツオブシのだし。コンブは高級だったのだろうか、使わなかった。しょうゆをどのくらい入れるのかと問うと、母はちょっと困って、こう言った。「色を見なさい」。立ち昇る湯気の、カツオブシの香りがこうばしい。その鍋にしょうゆを入れる。さっとひろがる鮮やかな色あいが深まっていく。そのどのあたりがいちばんよいか、二、三度の経験で身につけた。大さじ何杯の世界ではなかった。塩をほんのすこし入れる。しょうゆの味を引き立てるのだという。そういわれればそんな気になる。惣菜づくりは計量ではなく五感の世界だったのだ。

 今夜はなににするのかと聞いての答えは必ず、すぐに料理の名ではない。たとえば「きのうのタラを煮た汁は残っているかい」だった。残っているといえば「それで切干大根を煮たらいい」である。

 「今朝のごはんは何膳分くらい残ってる?」「四、五杯分かな」「じゃあ新しく炊くことはないよ。うどんをゆでなさい」。このときの経験で私が肝に銘じたのは家庭の食卓は「きょうの料理」ではなくて、きのうのつづきなのだということである。

地域の自給率、家庭の自給率を高めよう

 何十万部とでているという『きょうの料理』という雑誌をはじめ、ちまたにあふれる料理本の大部分は、カップ何杯、大さじ何杯半の世界である。そしてちかごろはカロリー計算した数字までが出ている。

 『日本の食生活全集』の世界、すなわち、“江戸期以来連綿と続いた伝統的食事文化の世界”では、量匁は感覚のとぎすましにまかされていた。江戸の料理本の一節を引こう。「皮をさりて、立に二つに割り。切かた、すこし小ぶりにすべし。ごまの油にあげすぐに醤油をかけ、とうがらし、またはおろし大こんを少し置きて、胡椒をふりて、出す也」(「大根一式料理秘密箱」の「揚出し大こん」の項)。

 そして『日本の食生活全集』の記述

 「大豆を鉄なべで、豆が笑うまで香ばしく炒り、その炒りたてを水で薄めた醤油の汁の中へ入れる。すぐふたをして冷めるまでおくと、大豆が汁を吸ってふくれ、やわらかくなる」(『高知の食事』の「ちゅん豆」の作り方)。

 「火をとめてすこしさまして、大豆の上を指でなぞってみて、さっさっさっと三回なぜて熱いと感じるときが、ツトに入れるいいあんばいのときだ」(『岩手の食事』の納豆の作り方)。

 “小ぶりにすべし”“豆が笑うまで”“さっさっさっと三回なぜてみて”−いずれも、なんとおおらかでおおまかな表現であることか。あとは作りたいと思った作り手の工夫と感覚にまかされている。

 飽食のなかで体が送る信号が途絶えてしまった。その信号は食べる者にだけでなく、作る者にも送られていたはずの信号だった。信号がなくなって、食べる者は舌をなまらせ味覚が鈍化し、作る者はカップとさじの藪の中で迷っている。どちらも、食べることに自信を喪失したのである。

 食事が洋風化され、惣菜・番菜が料理となり、おさんどんが調理人(板前、コック)になり、家庭が料亭化した。これが高度経済成長化にたどってきた日本人の食生活の大変動である。“江戸期以来の伝統的食文化”が消えてなくなろうとしている。

 もっとも、家庭の料亭化とはいっても、この料亭はあんまり程度がよくない。素材を吟味するのでなく、加工食品やレトルト食品の質を論議する。カレーのルウはグリコがいいかSBがいいか−。素材ならぬテレビCMの吟味なのである。

 人々はいま、自給率の低下を憂う。けれども、それは国の自給率についてである。それが低下していいというものではない。ただ、だから農業の国際競争力をつけなければと、お説教ばかりするのでは低下はとめられない。

 地域の自給率、家庭の自給率ということを考えてみたい。

 ここでいう「家庭の自給率」とは、素材を家庭菜園などで自給するというだけではなく、もう少しワクを広げて、市場経済のマスセル(大量販売)の大波の中から脱出するということだ。私の小学校時代のタマゴや野菜や魚は、近所の農家のおすそわけだった。あるいは父母の郷里からの到来物だった。市場から買うのではないという意味での自給。いま、その意味するところはかなり大きい。市場から買うのではない、ということはつまり日本産のものを買うということであって、結果として、国の自給率を高めていることなのだ。

 いま地方都市では近郊農家の婦人や老人による朝市夕市が盛んになっている。これはすなわち、地域自給であって、農家の自給が、地域全体に広がっているのだ。遠隔の都市へも、いまは宅配便という便利なものがあるから、産直する条件は拡大した。郵便局までが小包産直をやっている。

 産直や朝夕市はいわゆるバイパスで市場経済のなかでは微々たるもの−とよく評論家はいうが、それはそうにちがいない。ただ、なぜ“微々たるもの”だから無意味なのか。そこがわからない。

 米の産直がもっと自由になる。米に乗せてわが村の産物をどんどんバイパス経由で都市に送ろう。これからの時代は、農村が都市に働きかける時代である。食べものについいえば、それが食べることに自信をなくした日本人の危機を救う。つまり、体が信号を送るようになり、台所をカップとさじから解放し、食卓に“きのうのつづき”の惣菜が復活する。“よき時代”を懐古するのではない。“よき明日”を創る。それは農業・農村がリードしてはじめて成り立つことである。

(農文協論説委員会)

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