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農文協トップ主張 1997年1月号
日中国交回復25周年と
香港返還の年にあたって

――われわれのなすべきことは何か


 本年、日中国交回復25周年に当たる新しい年を迎える。同時にイギリスのアジア侵略の最後の表徴である「英領香港」が中国に返還される年でもある。
 日中国交回復は1972年(昭和47年)に田中角栄、周恩来両首相の共同声明への署名によって実現した。声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深せんく反省する。」と、侵略戦争に対する反省を明確にしている。
 香港の返還は1984年(昭和59年)にサッチャー、趙紫陽両首相によって合意された。1842年、アヘン戦争によってイギリスに掠奪された香港島が、その後租借された9竜半島の一部とともに155年ぶりに中国に平和的に返還されるのである。中国にとってもアジア諸国にとっても記念すべき年である。

◆世界1の大工業地帯の出現

 この2つの記念すべき年の重なる今年をアジアにむけて新しい時代の出発の年としたい。そう考えてアジアの中心である中国の歴史を表徴する4つの都市を歩いて考えてみた。
 一つは、中国2000年の歴史を刻む都市西安である。秦の始皇帝の兵馬傭の眠る都市。
 2つは、中国1000年の歴史を刻む都市北京である。明・清の都。北方民族の侵入を防いだ城塞都市。
 3つは中国近代100年の歴史を表わす都市上海である。列国の租界によって栄えた経済都市。
 4つは中国20年の歴史を表わす都市深せんである。1979年に経済特区になり改革・開放政策の典型都市。
 4つの都市はそれぞれ歴史が異なり、それぞれの強烈な個性をもった都市である。しかし、いずれの都市も、大がかりな都市再開発の土建工事が市街地のいたるところですすめられていた点で共通していた。1960年代の日本の開発ブームの都市開発をはるかに上回る規模で進んでいる。
 西安―北京―上海―深せんに表徴される歴史が2000年、1000年、100年、20年、と短くなるに従って開発の勢いは倍加する。歴史が最も短い深せんの開発が1番すさまじい。
 16年前人口3万の漁村だった深せんは今や人口360万の大都市、GNPの成長は平均年率35%だという。中国の輸出高は1970年代には60%以上が上海を経由していたが、今日ではその上海を超えて深せんのある広東省が中国のトップである。これが、小平の打ち出した改革・開放政策の成功の典型である。
 おどろくべきことはそれだけではない。この深せんの人口は中国全土から集まってきた若者が主力を占める。平均年齢はなんと23歳という。さらにまたおどろくべきことは男女比である。男30%、女70%という構成比である。日本資本が経営するある工場を見せてもらったが、その女性労働者の働きぶりはすさまじい。日本資本主義の勃興期の紡績女工もかくやと思わせる働きぶりである。
 日本人の工場長の説明によると、労働能率は日本の2倍から3倍高いという。理由は労働者間の激しい競争である。まず、採用から競争が始まる。20人雇おうとすれば、300人から400人集まる。その中から、ふるいにかけて能率の高い人をピックアップできるという。さらに労働者は入社してから正社員と季節工に区分され、季節工は頭にスカーフを巻いて仕事をする。能率のよし悪しによってそのスカーフの色がピンク・黄・青の3色に分けられる。ピンクの中で能率の悪い人は解雇される運命である。能率がよければ黄・青とスカーフはかえられて、やがて季節工から正社員に昇格するという具合である。
 働きたい人は土・日なしで働く。1生懸命働いて郷里の両親に送金するのである。
 工場の設備はきわめて近代的設備で、きわめて明るい。空調設備は良好である。高層建築の各階が作業場である。そして工場からすぐ近くにやはり高層建築のアパートがある。決して女工哀史ではない。娘達はいきいきと意欲的に働いている。働けばそれだけのペイがあるのである。この娘達に未来がないとはいえない。結婚して定住する人々も少なくない。
 この急成長都市深せんのお隣が「英領香港」なのである。人口600万人の香港の経済力については書くまでもあるまい。この香港と深せんが一体となると、なんと1千万都市になる。
 この地域が京浜工業地帯を超える大工業地帯、世界最大の大工業地帯になることはきわめて明確である。

◆中国は1国家2制度でアメリカを超える

 返還後の香港は、特別行政区として、外交、国防以外は自主性が与えられ、社会経済制度も、50年間は従来どおりの資本主義体制をつづけるという。人類史上初めて「1国家2制度」の新しい国家ができ上がる。マルクス主義の「国家権力の変革が階級関係を変革する」というテーゼが変えられるのである。
 香港が中国に返還されない前から、「英領香港」の通貨である「香港ドル」が深せん特別区で通貨として流通していた。人も車も定められた通行許可証で自由に出入りしていた。
 香港返還後は「中国領香港」と深せんは一体となって一つの地域を形成するであろう。さらに2年後の1999年にはポルトガル領マカオ(人口50万人)もポルトガルから中国に返還され、この地域に加わるだろう。
 この深せん・マカオを含む「中国香港大地区」が、東シナ海と南シナ海を結ぶ地点にあって人類史上の「新しい地域」を形成するのである。この「新しい地域」は国際化時代にふさわしい新しい「地域分権」、新しい「地域自治」のあり方を創造するに違いない。
 この全く新しい「地域分権」、全く新しい「地域自治」の確立によって、台湾問題を典型とする、民族・宗教問題が基本をなす今日の国際問題を根本的に解決する道が拓かれるのである。
 この地域は古い時代から国家権力とは別に「中国華僑」によって、経済的に結び合わされてきた地域である。国家の利害とは異なる次元で、相互に複雑に絡み合った利害を共有した歴史を持つ地域である。この地域が、グローバリズムとローカリズムを止揚した新しい段階での世界に開かれた地域の典型を生み出す。21世紀はアジアの時代だといわれる内容はここにある。21世紀はアジアの時代であるということは、21世紀は中国の時代ということなのである。
 小平は「1国家2制度」を腹に据えて、改革・開放の道をすすめた。1979年に広東省の深せん・珠海・汕頭と福建省の厦門の4つを、そして1988年には海南島も加えて経済特区とし、外国資本に開放した。香港・マカオの租借期限を念頭においた台湾問題解決の小平戦略である。これは見事に成功している。深せん・香港の工場を含めて現場を歩いての実感である。
 小平路線のもう一つの柱、社会主義市場経済路線。これは経済優先の「地域」間競争の原理である。地域地域で大小さまざまの郷鎮企業を興し、「地域」を豊かにする。豊かになるための地域間競争である。今日の中国の経済的特徴は地域ごとに豊かな地域と貧しい地域の「地域階層」の形成である。そしてこの競争を指導しているのが地域の共産党組織のように思う。
 人々は大学の先生であろうと、お役人であろうと、労働者、農民であろうと、すべての人々が、「もうける意欲」旺盛である。この「もうける意欲」が中国の高度経済成長を支えている根源である。
 12億の民がもうけの意欲に燃えている。アメリカの約5倍の人口。中国の国民1人当りのGNPがアメリカの5分の1を超える時、中国はGNPで世界のトップになる。中国の国民総生産がアメリカを超える時期はそう遠くはない。

◆巨大な豊かさの中の巨大な貧しさ

 だが、「豊かさ」をもとめて燃えている大都市深せんの駅頭に立って、一つの巨大な貧しさを発見した。山である。駅のすぐそばまで迫っている山は、「ハゲ山」である。その目で周囲をみわたすと、周辺の山々にはことごとく木がない。
 もうかる第2次産業・工業、第3次産業・商業は、この人民の「もうける意欲」さえあれば、問題は根源的に解決する。資本はこの豊富で良質な労働力に決して着眼しないはずがないからである。
 しかし、林業や農業はそれだけでは問題が解決しない。中国社会主義の真価が問われているのは、山の問題を含めた農業問題である。
「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する事を宣言する。」共同声明の第5項には明確に中国政府の賠償放棄が宣言されている。この宣言をどう受け止めるか。
 わが農村においては、親の代に隣家に迷惑をかけたら、子の代にはその償いをしなければならない。決して隣家が迷惑を許してくれてもそれに甘んじることはない。それが伝統的な日本の農村の道徳である。
「親の代」に隣国にかけた迷惑を許されたからといってそれに甘えてはならない。
 日本人がアメリカが投下した広島・長崎の原爆の被害を決して忘れないのと同じように、中国の人々は日本の侵略行為を決して忘れはしない。
 日中の友好は、われわれの側からは、罪の償いの心を土台にすることによって結ばれる。各地の農村が中国との交流で示されている研修生の受け入れや、技術の援助の数々は、まさにその表われである。
 鳥取大学の遠山正瑛先生は中国の砂漠に木を植える運動で中国を援助した。農文協が中国農業映画製作所を助けて制作した「黄河にみどりを」の映画がある。日本語版はビデオ化されている。遠山先生の「砂漠で植林、中国へ体験派遣団募集、5年で百万本目標」を超えて、96年十月までに107隊、2200人、植林本数は150万本を突破した。
 岩手の農家、藤原長作さんが黒龍江省の稲作増収運動で大きな役割を果たし、「日中友好水稲王」として誉め称えられ表彰され銅像も立ったのはあまりにも有名な話である。
 中国の農業の発展のために援助することこそ、日本が中国に償うことのできるきわめて大事なことである。
 高度経済成長の中でわれわれが失ったもの、日本が豊かになることによって失ったもの、それは食糧自給率の低下、農村の衰退である。同じ道を中国が歩まないように援助する。これこそ侵略の罪を償う最大のものであろう。そして、日本にしか果たしえない役割でもある。

◆中国と日本の農業の共通性

 なぜなら、中国農村と日本の農村にはきわめて共通性が多い。第1に圧倒的多数が零細経営である。第2に高齢化である。1994年の国勢調査では60歳以上が9・76%である。中国は発展途上にありながらすでに高齢化国家に入った。また、都市近郊のわずかな模範的大農場制の農業を除けば、中国の農業は零細経営である。自給的農業経営も決して少なくない。若者が都市に流出し、農村の高齢化は急激に進んでいる。これからの中国の経済発展と裏腹に農村の高齢化は進む。
 農業生産力の増進対策は第1に単収の増加対策、第2に栽培作目の転換対策である。増収対策は(イ)優良品種の導入(ロ)防除(ハ)肥培管理(化学肥料の使用の改善)(ニ)暗渠排水。中国水田地帯の指導者の発言である。
 いずれも、日本の農家が得意とする技術だ。技術普及システムとしては日本の農業改良普及事業の経験はきわめて有益である。定年退職後の超ベテラン農業改良普及員が中国農村の現場に第2の人生を求められるような制度を無償援助プランとしてうまく運用できるようにすれば、きわめて友好な援助になるだろう。言葉の問題も、あらかじめ中国の研修生を農村で受け入れ、農家の相互交流を土台にすればきわめて相互に有益な関係を結ぶことができよう。
 農村と農水省が官民一体となって中国の農業の援助を国家的施策として推進すれば、21世紀の世界を平和的安定的なものへ発展させる上できわめて大きな国際貢献をすることになろう。

◆中国の「古代科学」のもつ人類史的意義

 援助するということは助けることだけにとどまらない。中国と日本は古代において「古代科学」を共有してきた。農業についていえば、日本の江戸期の農業の発展に貢献した「日本農書」の原型は「中国農書」である。江戸時代以前においては日本に農書はない。中国の農書、それは漢文であるから日本の昔の知識人はそのまま読んでいたのである。つまり同じ「農書」を読むというかたちで農業についての「古代科学」を共有していたのである。現存する専門書で最古の農書は今から2000年余り昔の『氾勝之書』である。『氾勝之書』は現代語訳が農文協から出版されている。この本の解説で石声漢氏(中国北西農業大学教授)は「氾勝之の農業思想を一言でいうと、作物を育てるには適切な環境を保護することが大切であるということになる。そしてこの場合、適切な環境とは土の性質と、土の水分と、土の温度が大気の温度と調整がとれている事だ。」と言っている。日本の土壌学者、岡島秀夫氏は「『氾勝之書』には現在、世界が直面している農業生態的な問題に指針を与えるものが多い。」と書いている。
 もっと実用的には、『氾勝之書』には今日「現代農業」でも再3とりあげているネギ・ニラ混植の技術が出ている。2000年前の中国でネギ・ニラ混植技術はあったのである。
 日本だけではない、韓国もベトナムも含めて、近代以前においては東アジア全体の地域が「中国古農書」を共有していた。
 近代科学を超えるために、江戸期の農業の視点に戻って現代を批判することを提唱して農文協は『日本農書全集』全35巻を発行し、現在第2期・全37巻を発行しつづけている。視野を世界に広げてみれば、現代科学を超克する原点として「中国古代科学」があるのではないか。すくなくとも、中国古農書は「科学主義農業」をのりこえて21世紀に道を拓く鍵を潜めていることは確かである。
 中日両国民の共有の財産として、中国古農書に戻り、共通の土台の上に、ヨーロッパ農業を超える新しいアジアの農業を形成し、自然と人間の調和するアジア型農業を日中両国の農民の力で作りだすことが、安定した21世紀をきり拓く土台となる。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と、1972年の日中国交回復共同声明は宣言した。そして「アジア及び世界の平和及び安定に寄与する事を希望し、両国間の平和な友好関係を発展させる為に」1978年に日中平和友好条約が、園田直、黄華両外相によって締結されたのである。
 国交回復25周年と香港中国復帰の重なる新年に当たって、それぞれがなすべきことを考えなければならない。
(農文協論説委員会)


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