主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食と農 学習の広場 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 2003年7月号

江戸時代は世界の未来
“江戸開府400年”に寄せて

目次
◆江戸時代は地方分権の見本
◆手本のない時代は過去をふりかえる
◆郷土の江戸時代を調べる総合学習

江戸時代は地方分権の見本

 今年は江戸幕府が開かれてから400年目に当たるそうで、東京の「江戸東京博物館」や名古屋の「徳川美術館」での「江戸開府400年記念特別展示」から、江戸の旧跡を巡るウォークラリーに至るまで、じつに様々な行事が各地で行なわれています。東京都営の新しい地下鉄が「大江戸線」と名づけられても、都民には違和感はありません。それだけ、江戸時代の持つ意味が、広い範囲で注目され納得されているということでしょう。

 ところで、今から115年前の1889(明治22)年、東京上野で江戸時代を回顧する「300年祭」という祝典が、旧幕臣で新政府に反逆した榎本武揚を委員長として開かれました。家康の関東入国(開府に先立つこと13年の1590年)を記念したものでその趣旨書は、新政府を「古習旧慣をきてただ法を外国より採り来りて、以って国家を経綸せんと欲するもの」と批判しています。

 しかし、そのあとの歴史は
 1894(明治27)年 日清戦争
 1895(〃28)年 台湾割譲
 1904(〃37)年 日露戦争
 1910(〃43)年 韓国併合
 と、もっぱら対外拡張にすすみます。

 もともと明治維新というのは国家の体制を地方分権から中央集権に変える・・・・・・・・・・・・・・一つの革命でした。成功した革命家が前の時代を否定するのは当たりまえです。明治政府は富国強兵を国是とし、アジアを脱して欧米大国に倣い追つく道をひたすら歩みました。その行きつくところがアジアへの侵略と米英など連合軍との戦争、そして敗戦でした。

 戦後は民主主義が国是となります。しかし、中央集権という国家運営の手法は変わらなかった。地方自治体の首長は住民が選ぶことになっていますが、国政は国のすみずみまで浸透しています。

 こうした明治以来の中央集権の国家運営の継続のなかで、江戸時代は「士農工商」の身分社会であり、封建的な(非民主主義的な)社会であり、武士は斬り棄てご免で、人民は生かさぬように殺さぬように真綿で首を絞められる、そういう暗黒の時代だったというイメージが広く流布されてきました。

 それが歴史の研究がすすむにつれて、しだいに修正されてきて、現在ふつうに通用する江戸時代の見方は、大筋としてつぎのようなものでしょう。

 江戸時代は島原の乱(1637年)という局地的な内戦を除けば国内での武力行使はなく、また幕府成立直前の秀吉による朝鮮侵略(1592〜98年)以後は海外への出兵もなかった。2世紀半も続いた平和の時代であった。

 前半の70年ほどは開発の時代で耕地も人口も2倍前後増加した。生活する場所は丘陵から平野へと拡がり、村々に小農家族という形での庶民が誕生した。そして元禄の繁栄時代(1688〜1703年)を迎える。

 繁栄の時代を到来させた開発の時代を、現代の高度経済成長期になぞらえてみると、元禄以後幕末までの約150年の間は低成長の時代である。しかし、江戸時代の場合は、この低成長期がまた、成熟と爛熟の時代でもあった。今でいう環境保全やリサイクルの知恵が、山野でも都市のすみずみでも発揮される。山林でのとめ山、留木の制(乱伐の防止)、魚付林の確保(沿岸漁業の保護)、都市の屎尿の農地 への還元などは、そのほんの一例である。

 一方、諸国に物産(特産物)の振興が行なわれる。地域資源の開発と新しい作目の導入の双方が活発に進められた。朝鮮や中国からの輸入に頼っていた綿布は、綿作の広がりによって自給が可能となった。台湾産などに頼っていた砂糖も、サトウキビの栽培が讃岐や阿波をはじめ各地に広がり、19世紀初頭にはほぼ国内生産を達成している。

 そのように江戸時代が注目されるようになったからこその“400年記念”です。

 ひとりの学者がこう言っています。

「江戸時代の社会というのは、日本の歴史の中で唯一の、下から積み上げていく社会なんです。幕府がその上に立って全体の利害を調整する役割を果たしてきた。それをつぶして明治政府ができると、今度は下をつぶして上から下を押さえ込んでいくシステムに作り変えて、今も基本的にはこのやり方が続いています。」(大石慎三郎『現代農業増刊ニッポン型環境保全の源流』31ページ)。

 下から積み上げていく社会というのは、とりもなおさず地方分権(地方自治)を意味します。上が下を押さえ込むシステムとは、つまり中央集権です。

 中央集権というシステム(手法)は、もともと地域性をこわす力を持っています。また経済の高度成長はそれに拍車をかけました。日本中どこに行ってもスーパーやコンビニがあり、売られているものも売られ方も同じになってしまいました。

手本のない時代は過去をふりかえる

 農文協はかねてから江戸時代に注目し、江戸時代に関係する全集を4点刊行しました。『日本農書全集全72巻別巻1』(朝日新聞「明日への環境賞」受賞)、『安藤昌益全集全21巻別巻1』(「毎日出版文化賞」受賞)、そして『江戸時代人づくり風土記全50巻』『叢書日本漢方の古典全3巻』です。このうち『江戸時代人づくり風土記』は都道府県ごとに1巻をあてた全50巻の作品で、その企画意図はつぎのようなところにあります。

 高度成長期が終わったわが国にとって、もはや世界をみまわしても手本にすべき国はない。手本のない時代には歴史をふりかえって指針を見出すほかはない。幸い私たちには江戸時代という“下から積み上げていった”過去がある。それをつぶさにふりかえってみよう。ただし、江戸時代の通史―年代を追って政治や社会の変遷を記述し、その変遷の必然を理由づけた歴史の本―をつくろうとは思わない。指針を見出せるような、具体的な事実を集めたい。だから歴史ではなくて「風土記」なのである。

 ではなぜ人づくりなのか。いま人と自然の関係、人と人との関係がたいへん乱れている。では江戸時代に人と人、人と自然とはどんなつきあい方をしていたのだろうか。それを知ることで、現代の人材の育成に役立てたいと思うからである。

 そういうねらいなので、この『江戸時代人づくり風土記』は各県版共通につぎの5つの章で構成されています。

(1)地域の自然を生かして生き、ときには政治の圧力と闘った「自治と助け合いの章」。
(2)地域経済の安定・発展を願う先人の努力を描く「生業の振興と継承」の章。
(3)世界的にみてトップレベルだと評価される教育や、それと表裏一体の関係にあった娯楽のあり方を見る「地域社会の教育システム」の章。
(4)家族と家業の安定・永続をはかることがとりもなおさず子育てであった時代の「子育てと家族経営」の章。
(5)全国の社会・文化の情勢をいち早くとらえ、地域の交流、学芸・産業の発展や社会改革運動を担った「地域おこしに尽くした先駆者」の章。

 開発や産物、慣習や行事、人物や事件が、地域に即して、40〜50の物語として語られていますから、歴史を勉強するのではなく、江戸時代の人々や自然に、さまざまな角度から触れ合うことができます。

 江戸時代が封建社会で身分社会で、斬り棄てご免の社会だったという教育を受けた編集者としては、執筆者から送られてくる原稿に目を通すたびに、あっと驚く発見がありました。

 そのような発見の数々から、ほんの少しですが要旨を書き抜いてみました。

◆農家のお母さん5人づれが30泊31日の大観光旅行をした話(神奈川)

 幕府が1649年に出したといわれる慶安の御触書という文書があって、これは農民の暮らしをことこまかに規制したものだ。その1項に「大茶を飲み、物まいりに遊山好きする女房は離別すべし」とある。ところが、神奈川県淵野辺の養蚕農家の主婦5人が、1カ月もの長旅をした記録が残っている。寺社参詣を名目にした大観光旅行で、天保14(1843)年の春のことだ。在所の淵野辺を北上してまず秩父巡礼をはじめる。34番所を巡りつくしてこんどはなんと長野の善光寺に詣で、帰途にはまた足をのばして日光の東照宮に至る。

 この話を紹介した相模原市立図書館の長田かな子さんは「その体力、精神力のたくましさもさることながら、農閑期とはいえ、かくも長き不在と、かなりの出費を許される彼女たちの、家庭内での重い存在をうかがい知ることができます」と結んでいます。

 江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、同じ神奈川県の大山は信仰の山として名高いが、じつは江戸庶民の格好の観光地でもありました。信仰の対象である阿夫利神社には御師おしという僧侶が150人ほどもいて、江戸八百八丁のすみずみまで立ち入って大山講を組織していました。この御師について「江戸庶民の信仰と遊山」を執筆した神奈川県立博物館の鈴木良明さんはこういっています。「御師の積極的な講の組織活動は、客観的にみれば、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。事実、江の島や大山の参詣客の大部分は信心半分、娯楽半分で、なかにはお参りはほんの口実で、名所見物と飲んで騒いでが楽しみという向きも多かったのです。寺社側もそのことは百も承知で、参詣客の誘致につとめることで財政を豊かにしただけでなく、門前町の発達、土産物産業の育成、地元産品の知名度の向上など、さまざまな波及効果によって地域の活性化に寄与しました」

◆杉の生えない山を二段林仕立てで見事な山林にした話(千葉)

 千葉県の中央部には山武林業とよばれる林業地がある。杉と松の二段林という独特の林地つくりで知られるが、この山武林業の興りは江戸中期のことだった。もともと火山灰土で水はけが悪く、杉の生育に適さないこの地に杉が育つようになったのは、江戸で木材の需要が高まるなかで、農民たちが工夫に工夫を重ねた結果である。旺盛な研究心が産地をつくる。

 工夫は2つあり、ひとつは挿し木苗、ひとつは杉と松の二段林である。林を育成するのに、まず黒松を植える。1、2回間伐して松林を育て、15年から30年後、松の生育にあわせてはじめて杉苗を植える。松に守られて杉は順調に育つ。杉が一人立ちしたころ、松を伐り杉の純林とする。杉は江戸の家屋の、とくに障子や雨戸の材として珍重され、山武は「上総戸かずさど」という建材の特産地となった。松も有効に使われた。炭に焼くのだ。

それにしても、松を植えてから杉を伐るまで、100年近くかかります。1代では無理。先祖の残した杉を伐り、子孫のために松を植える。自然の大きな循環とともに世代を重ねる、江戸時代の人々ののびやかでおおらかな姿が思い浮かびます。

◆木曽の森林には留山という資源・環境保護の制度があった(長野)

 木曽は今につづく古くからの林業地で、江戸時代には年貢は米でなく木材で納められた。これを役木やくぎという。ところで、この木曽には留木とめぎ停止木ちょうじぼくとか、明山あけやま留山とめやま巣山すやま尽山つきやまという聞きなれないことばがある。木曽の林地を管理する尾張藩がつくった制度である。明山は、伐採自由の山、留山と巣山はともに伐採禁止の山のことで、巣山はもと鷹を保護するため指定されたのだが、のちには鷹の巣の有無と関係なく、留山同様の意味になったという。一方、尽山とは皆伐した山のことで、江戸時代初期には多く見られたが、のちには一切禁止された。森林の保護は1本1本の木にも定められていて、留木も停止木も、明山の中であっても伐ってはいけない木のことである。

 この江戸時代の木曽の森林保護のルールは江戸時代初期の「高度経済成長」のもとで行なわれた尽山に対する反省から生まれたもの。藩の指導があったとはいえ「直接、山を保護管理していたのは、村々の人たちです」と長野県史編纂室の小松芳郎さんは書いています。

郷土の江戸時代を調べる総合学習

 長い間江戸時代は、「封建的」のひとことで暗いイメージを持たされてきましたが、そうしたなかでも、落語や江戸小咄や川柳の世界に親しんできた人たちは、そこに庶民のしたたかさやユーモアを絶やさない心を見つけていました。

 ですが、『江戸時代人づくり風土記』は、そうした江戸庶民の風流や滑稽ばなしを集めたものではありません。江戸時代270年のあらかたを平和に自立して暮らした庶民の生き方を、自然と人間の関係(村おこし)と人と人との関係(人づくり)に焦点を合わせて、読み切りの200余の物語にまとめたものです。江戸人の生き方からどのような“未来への指針”を得られるでしょうか。いや、そう急ぐ必要はありません。気楽に江戸にタイムスリップして江戸庶民の群像と在所のリーダーたち、そして全国を歩いて各地の情報を交流させたパイオニアたちと、親しくつきあってほしいと思います。文章は「です」口調で書かれ、くわしい字句解説もつけました。またカラー口絵もふんだんに挿入してあります。

 なお、この全集の東京の巻は特別に『大江戸万華鏡』と題してつぎのような構成をとりました。

 前 章 大江戸・その繁栄と人づくり
 第1章 大江戸シティ・プラン…都市構想と基盤づくり
 第2章 大江戸セキュリティー・システム…治安防災厚生のしくみ
 第3章 大江戸ビジネス・タウン…そろばんと技の世界
 第4章 大江戸バックグラウンド…山から海から畑から
 第5章 大江戸ルネッサンス…学問と芸術の広がり
 第6章 大江戸ビジターズ・アイ…外国人に聞く江戸観
 第7章 大江戸ライフスタイル…江戸っ子日々の暮らし
 第8章 大江戸アミューズメント…物見遊山の楽しみ
 CD 江戸の音 朝から夜へ&四季の巡り
 口絵 (1)築く (2)働く (3)学ぶ (4)驚く (5)楽しむ

 

 現在の東京の姿になぞらえて構成したもので、CDつきの750ページという大冊です。

 さて、最後にひとこと。中央集権の国家運営は、教育の面にとりわけきびしく現れました。敗戦までは国定教科書、戦後は検定教科書によって、前者では富国強兵が、後者では民主化が貫徹されました(このごろは民主化とも限らないようですが)。

 ところが、教育の荒廃に危機感を持った文部科学省は、とうとう教科書を使わない課目をつくりました。「総合的な学習の時間」がそれです。そこでどのような授業をするかは個々の学校にまかされています。もう一つは調べ学習。暗記ではなく自分の頭で考えをまとめていくことの重視です。そしてもう一つ。地域に密着した教育が推奨されています。そのためには地域で活躍している一般の人を招いて授業を展開する“地域の先生”の制度もつくられました。

 地域を調べる、地域の昔を調べて明日を考える学習には、この全集が役立つにちがいありません。

 驚いたことに『江戸時代人づくり風土記』は学校の先生を養成する教育系の大学でも使われています。京都教育大学教授の吉村文男先生が書かれた文章を引用して終わりといたします。

 「学生それぞれに(この全集の)自分の出身県の巻を持たせて、その報告を中心に授業を進めた」「江戸時代といっても、長い日本の歴史からすればほんの昨日のことなのだが、変化の速い今日ではもうその時代の跡を実際に見ることはほとんど不可能である。それだから学生たちにとっては(この全集に)出てくる事柄はまったくはじめて出会うことばかりであったようだ。だが、それだけに彼らにとってその授業は“おもしろかった”というのが共通の感想だった」「江戸時代を現代と結んで、行き詰まった現代の学校教育に風穴をあけると期待されている“総合的学習”のプランを、江戸時代を現代と結んで参加学生がつくるというところまで進められれば、と考えている」(「地域と歴史と農業を結ぶ総合的学習―近代社会の行き詰まりを超える道」『出版ダイジェスト』'99 .11.20号)。

(農文協論説委員会)

 

●『江戸時代人づくり風土記』の巻構成等は巻末ページをごらんください。

次月の主張を読む


ページのトップへ


お問い合わせは rural@mail.ruralnet.or.jp まで
事務局:社団法人 農山漁村文化協会
〒107-8668 東京都港区赤坂7-6-1

2003 Rural Culture Association (c)
All Rights Reserved