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農文協トップ主張 2004年1月号

21世紀アジア農業の進む道
中国国家「友誼奬」受賞に寄せて

目次
◆親のかけた迷惑は息子が償う
◆「農業・農村計画」の調査実施と酪農家の交流 
◆持続的農業を東洋思想で築く

 日中文化交流協会の機関誌は、「農山漁村文化協会・坂本専務理事が、中国国家『友誼奬』を受賞」の見出しで、要旨次のように報じている。 

 「坂本尚氏が長年にわたり出版活動を中心に日中農業交流に尽力し、中国の農業や農村の発展・農業科学技術の普及・人材教育に寄与されてきたことが授賞の理由となった。同賞は中国社会の発展に突出した貢献をし、私心のない奉仕精神を発揮した外国の専門家に贈られるもの。9月29日に北京で授賞式が行われ坂本夫妻をはじめその他の受賞者が招かれ、出席した。翌30日午後には、人民大会堂で温家宝首相の接見を受けた。」(『日中交流』2003年11月号6ページ)。

 外国人として最高の栄誉である「友誼奬」の授与に、私は心から感謝している。勲章というものを私は嫌いである。にもかかわらず、どうして中国の「国家勲章」を貰うことを喜び感謝するのか。それには深い訳がある。

親のかけた迷惑は息子が償う 

 農文協は昭和15年に設立された公益法人である。昭和15年という年は「皇紀2600年」の年であった。70歳以上の読者には「皇紀」の意味はおわかりだろう。久しく目にしない年号だが「皇紀2600年」というと昔のことを思い出されるに違いない。 

 戦前の日本は「西暦」を使わず、「皇紀」を使った。日本の紀元を「日本書紀」に記されている神武天皇の即位の年、西暦前660年を紀元一年としての年号である。1940年(昭和15年)には皇紀2600年の大々的な記念祝典が行なわれた。その翌年には「小学校」が「国民学校」と改称され、思想教育面で徹底的に国家主義・忠君愛国主義が叫ばれた。 

 また、この年は日独伊三国軍事同盟が成立した年であり、既成の諸政党が相ついで解散し、大政翼賛会が生まれた年でもある。政党だけではない。労働組合もすべて解散させられ、「大日本産業報国会」がつくられた。その昭和15年に農文協は、社団法人として設立認可されたのである。そして、農文協の活動の財源の主要な部分は農商務省からの助成金と、官庁及び関係団体からの委託費であった。農文協が出発することができたのは、戦争推進、大政翼賛体制の一翼であったからである。 

 敗戦後、占領軍の覚書によって、農文協は戦争に協力した公職団体に指定された。当時の経営トップであった古瀬伝蔵副会長が公職追放となった。その後、経営は職員組合の管理に移り、労組が経営の再建に取り組んだ(この間の事情については「近藤康男著・農文協50年史」に詳しい)。 

坂本尚専務理事
友誼奬を受ける坂本尚専務理事(左)

 占領軍の農文協トップに対する公職追放を受容したからといって、農文協の戦争協力の罪が贖われるものではない。侵略戦争の最大の被害国、中国に対する贖罪の義務は農文協に残っている。1985年、農文協の専務理事になった私は、その義務を果たすべく中国支援の事業に取り組んだ。日本の「むら」に根付いた慣習的な道義には「親のかけた迷惑は息子が償わねばならない」というものがある。この道義を守るために、トップとしての責任を果たす。それが、農文協の中日友好・交流事業の根源である。贖罪の事業を「お前はよくやった」と認めてもらったのが「友誼奬」の授与であるから、「有難い」と感謝し喜ぶのは当然の気持ちなのである。やった「甲斐」があった。 

 害を加えた側は、往々害を加えたことを忘れる。しかし、害を加えられた側は、決して害を加えられたことを忘れはしない。広島・長崎に落とされたアメリカの原子爆弾。その被害を日本人は決して忘れない。しかし、アメリカ人は忘れる。中国の人民は、日本が侵略戦争で中国人民に加えた害を決して忘れはしない。日中友好・交流のベースに、侵略戦争に対する贖罪の道義をおくこと。これが21世紀を創るうえで極めて重要な日本人の道義である。日中友好・交流のベースを「利益」におくのではなく「道義」におく。 

 農文協がなぜそうしなければならないのか。創立にかかわる深い深いわけがあったのである。加えていえば、農文協が戦時中にやったことの中には、日本農民に対する無意味、有害な働きかけもあった。その償いのうえに新生農文協は事業を進めてきている。それもまたわれわれにとっては道義の問題である。 

「農業・農村計画」の調査実施と酪農家の交流

 世界的不況が続く中で、中国の経済成長は続いている。人口13億。世界人口の二割を占める大国、中国経済の動向は21世紀の経済発展に大きく影響する。中国の経済発展が、1960年代の日本の高度経済成長のように「自然と人間の矛盾」(環境問題)を激化させる経済成長であってはならない。人口わずか数億の先進資本主義国の経済成長が地球環境を悪化させたのだから、13億を超える人口大国の中国が同じような経済成長の道を歩めば地球環境は大きく悪化する。自然と人間が調和する方向での経済発展へ、農村の発展を基礎に都市を発展させる方向での経済発展にむけて、日本のマイナス経験を活かした交流が行なわれなければならない。 

 1998年、私は中国農業科学院の農業現代化モデル地区である河北省鹿泉市を視察した。視察の中で、省都石家庄近郊で北京から高速道路が通じる鹿泉市の、多様な農家に刺激され、鹿泉市農業の調査を思い立った。 

 農文協は農村調査については多くの経験をもっている。茨城県の玉川村を調査して「水田プラスα農業」を提唱し、岩手県志和町を調査して「自給型小農複合経営」を提唱した。農村調査の中で、未来の農業について考えるのは農文協の「農村文化運動」の基調である。この手法を中国農村で実現してみたい、そう考えたのである。 

 幸い河北省の河北農業大学には、農文協の理事である青木志郎氏が客員教授として、独立した研究室をもっておられる。「農村計画」の第一人者である青木氏に「鹿泉市の農村計画」についての調査をお願いした。 

 農文協には、中国に多くの友人をもつ、農業・農村問題の第一人者である今村奈良臣理事もおられる。今村氏には「鹿泉市の農業計画」についての調査をお願いした。 

 両理事の快諾を得、「鹿泉市大河鎮発展計画」の青木チームと「鹿泉市農業・農村発展計画」の今村チーム、この二つのチームが発足した。事務局は玉川村と志和町の調査を経験している原田津常務理事が担当した。 

 これらの調査は、劉志澄・元中国農業経済学会長、陳錫文・国務院発展研究センター副主任、劉志仁・国務院参事および河北農業大学などの専門家の協力によって日中合作の「調査報告書」としてまとめられ鹿泉市当局に届けられた。 

 この調査は二年間に及んだが、その調査の中で、鹿泉市の酪農家と日本の酪農家の相互交流という副産物を生んだ。 

 たまたま、今村チームには元現代農業編集部長の斉藤春夫理事がいた。斉藤は鹿泉市酪農がぶつかっている問題は「ちょうど昭和40年代頃の日本と似ている」(2002年「現代農業」11月号『主張』46ページ)と感じた。当時、日本の酪農家はぶつかっている問題を解決するために、「二本立て飼料給与法」と呼ばれているエサ給与の改善に取り組み、問題を解決した。 

小沢禎一郎さん
鹿泉市での「二本立て給与法」の技術指導。左から2人目が小沢禎一郎さん
爪切り(削蹄)の講習会
酪農家を集めての爪切り(削蹄)の講習会も行なわれた

 その実践者である長野県の小沢禎一郎氏らの酪農家を鹿泉市に派遣し、技術指導を行なった。その後三年間7回にわたる技術交流がつづけられ、中国酪農家向けに中国語の酪農技術書「乳量20%アップの日本二本立て飼養技術」(DVD付)を発行するに至った。鹿泉市はこの本を3000部買い上げ、全酪農家に配布し、かつ粗飼料であるアルファルファを全戸で作付けるとともに、公共育成牧場を建設する方向に向かっている。 

 日中農業技術交流を、専門家・学者同士の交流の段階から、農家間の交流の段階に発展させたわけである。耕地が狭く、人口が多い中国農業は、日本の農家の経験を活かすことによって必ず前進する。日中両国の農民の技術交流によって「精耕細作」のアジア型農業を発展させなければならない。科学によって自然を征服する西欧型科学農業ではなく、自然と人間が調和するアジア型農耕を発展させることが、日中農民交流によって拓かれる。 

 中国農村調査の草分けである近藤康男先生(農文協名誉会長)は、中国農村の高級合作社化が進んだ一九五七年十月と、プロレタリア文化大革命下の1973年3月に中国農業の視察をされ、近藤康男著作集第十三巻に「新中国のあしあと」としてまとめておられる。鹿泉市調査の今村チームは、引き続いて近藤先生の調査地点の追跡調査を開始した。今村氏は近藤先生の孫弟子である。今村チームの一員である小田切徳美氏(東大助教授・農文協理事)は、その今村氏の孫弟子である。 

 近藤先生は平成16年1月1日に満105歳になられる。お元気で財団法人農文協図書館(農業・農村の専門図書館)の館長を務めておられ、今村・小田切両氏の調査報告を楽しみにしておられる。長老の調査地を40年後に孫弟子・孫の孫弟子が追跡調査して報告するとは、古今東西稀有のことであろう。 

持続的農業を東洋思想で築く 

 「鹿泉市調査」と「追跡調査」とによって、今村・小田切両氏は中国農業の未来を明らかにするであろう。中国農業の未来はアジア農業の未来である。中日両国の専門家による「21世紀アジア農業についてのシンポジウム」を開きたいものである。 

 時代は科学によって人間が自然を支配する西欧思想の時代から、自然と人間の調和をめざす東洋思想の時代へと転換する。そのリーダーは中国であらねばならない。近代のほんの一時期を除いて、中国は古来からアジア諸国のリーダー国であった。中国古農書は、韓国・日本・ベトナムはもとより、広く東アジア諸国に共通した「古代科学」の書であった。天文暦数学・医学・農学の三大科学は中国がリードしてきた。日本においては中国古農書をベースに「日本農書全集全72巻」に集積された日本農書群を形成した。東アジアの共通した古代農業をベースに、近代科学のゆきづまりを打開することこそ、21世紀においてアジアが果たすべき国際的役割である。 

 中国の現実的な農業をベースに日中の農業専門家によって、21世紀をリードする中国農業の道を明らかにしてもらいたい。 

 2002年、中国農業科学院のなかに、中国持続的農業開発センタービルが建設された。建物は中国側が建て、内部の研究・実験設備は日本側が提供した。日中両国の農業専門家の協力によって「持続的農業」の道を拓こうとする研究所である。 

 このビルの4階と6階の二つの部屋に「日本農業科学技術応用研究室」と「中日農業科学技術交流文献陳列室」が置かれている。 

 日本の農業科学技術を中国で応用して、持続的発展農業を中国農業の中心にすえる。その活動をこの応用研究室で推進しようと考えたのである。応用研究室は、中国農業科学院国際合作局長が直轄する中国国際交流協会が管理する。応用研究室の体制は、理事長は農文協の坂本尚専務理事、副理事長に中国農業科学院(農科院)国際合作局の梁劬局長、理事に農科院農業経済研究所の銭克明所長、中国農業科技出版社の林聚家社長、農科院国際合作局国家合作処の李淑雲処長の三人。農文協電算センター応用研究室支援部が応用研究室の活動をバックアップする。応用研究室には農科院の推薦により、王小萍(東京学芸大学教育哲学修士)を専属の職員としておき、農文協応用研究室支援部長の直轄指揮を受ける。両者はオンラインで結ばれている。 

 こうして、日中合同の組織が出来た。鹿泉市調査をはじめ、これまで述べてきた一連の活動は、応用研究室の活動として行なわれてきた。研究室は今後、日中農業交流の事務局として多面的な活動を担当する。 

 たとえば、「中国農業農村視察ツアー」のアレンジもする。昨年行なわれた多木化学(株)が世話人を務める九州神鍬会(肥料商店の会)のツアーの視察先は、農科院の土肥研究所、蔬菜・花卉研究所、および直営花市場、北京錦綉大地農業公司、北京大鐘寺農産物市場、上海浦東孫橋現代農業連合発展公司、上海市農科院の水稲圃場などであった。通常の観光コースとは全く異なる、文字通りの中国農業視察の旅である。 

 「友誼奬」受賞を機に、応用研究室の活動を一層幅広く展開していきたい。とくに農民レベルの交流に力を尽くす。中国に対する贖罪は、単なる資金の提供によってすませるものではない。アジアが進むべき共通の路線を草の根から見出し、中国がそのリーダーシップをとって歩むためのバックアップをしたいと思う。

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