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農文協トップ主張 2004年2月号

今、品種の個性で食文化を届ける時代
農家と品種の「共進化」

目次
◆タネが農家から離れていく
◆急速に広がる、地方野菜の復活
◆農家と品種の「共進化」が、在来種をつくった
◆人・畑・作物、それぞれの都合が折り合って
◆品種で、農村空間の豊かさを届ける

 野菜のタネの自家採種を続けている長崎県吾妻町の岩崎政利さんが、こんなことを書いている。

 「自家採種ができる固定種や在来種というのは、一株一株に個性的な多様性をもっています。その人の野菜を見る目によって、どの株からタネを採るかによって、タネを採り続けるあいだに少しずつですが変化していく。その人の思いをかなえようとするかのように、思いからちょっと遅れてついてくるような感じがあります。早生にしたいなあ、晩生にしたいなあ、長いのにしようか短いのにしようか、あるいは太いのか細いのか…と。でも、あまり迷ってはいけないのですね。迷った私の心をそのまま映した野菜ができることになります。タネを採ることから始める野菜づくりとは、その野菜の一生とつきあっていく、野菜から感動を与えられる農だと思います」(今月号152ページ)

タネが農家から離れていく

 岩崎さんにとって、野菜を育てることは、同時に自分のタネ(品種)を育てていくことなのである。「私の心を映す」タネ、農家とタネのかかわりは深い。

 しかし、そのタネが、農家からドンドン離れてきた。その象徴は、遺伝子組み換え品種(GM作物)であろう。

 GM作物は、作物のDNAの一部を人工的に改造したり、別の生命体の遺伝子を組み込んだりして、その作物がもっていなかった性質を与えるもの。現在では、アメリカを中心に除草剤耐性作物(除草剤・クリホサートをかけても枯れない)と害虫耐性作物(バチルス・チューリンゲン菌―BT―の遺伝子を組み込んだもので、これを食べた昆虫はBTの毒素によって死ぬ)が普及している。ダイズ生産量が世界一のアメリカでは、すでに70%がGMダイズだ。

 GM作物については、いろんな議論がある。食べものとしての安全性の問題、GM作物から周囲の作物や植物への遺伝子汚染の心配など、批判が強まっている。一方、推進側は、現在の作物も長い歴史のなかで遺伝子組み換えされており、遺伝子組み換え技術は自然界で起きる現象を人為的に早めるものにすぎない。あるいは、沙漠など不良環境に育つ作物や機能性が高い作物の育成など、GM技術は、人類に計り知れない恩恵をもたらす、と強調している。 

 さて、ここで問題にしたいのは、農家とタネ(品種)の関係である。

 GM作物が広く普及しているアメリカやカナダでは、今、多くの農家がGM作物の種子を販売しているモンサント社から特許侵害で訴えられるという、たいへんな事態になっている。

 サスカチュワン州の農家パーシー・シュマイザーさん(72歳)もその一人。ナタネや大豆などの育種家でもあるシュマイザーさんのナタネ畑の周囲ではGMナタネがつくられ、それとシュマイザーさんのナタネが交雑したため、モンサント社から「特許侵害」で訴えられたのである。2000年6月、カナダ連邦裁判所は、シュマイザーさんに対して、特許侵害で有罪判決を下した。

 「長年、自分で育種したナタネしか栽培しておらず、GMナタネを不当に入手したことなどない。逆に私は被害者であり、私のナタネが隣の畑のGMナタネによって汚染された」というシュマイザーさんの主張に対し、判決は、「どのような方法で種子が持ち込まれたかは重要ではなく、特許侵害に当たる。収穫したナタネの所有権はモンサント社にある」であった(現在、上告中、詳しくは358ページの本田氏のレポートをご覧ください)。

 種子がこぼれたり、風や昆虫によって花粉が運ばれて勝手にGM作物が畑に入り込んだとしても、汚染された側に罪があるというのだ。その作物の所有権すら認められない。もし、モンサント社が世界中の農地にGM作物の遺伝子をまき散らせば、すべての農民がモンサント社に特許使用料を支払わなければならないというとんでもないことになる。

 モンサント社の“ターミネーター・テクノロジー”戦略も問題になっている。二世代目が発芽しないように設計された通称“自殺する種子”だ。二世代目を採種不可能とすることで、農家が毎年種子を購入するようになり、企業に利益をもたらし、遺伝子情報の漏洩を防ぐことできる…。

 進む、大企業による「種子世界戦略」、 タネが、農家からどんどん離れていく。

急速に広がる、地方野菜の復活

 種子のグローバリズムが進むなかで、このところ日本では、在来種や地方野菜を見直す動きが急速に広がっている。京都の「京野菜」は有名だが、金沢の「加賀野菜」、大阪の「なにわ野菜」など、各県で、伝統的な品種をその食べ方とともに復活する取り組みが盛んになっている。長い間に変化した品種の形質を本来の姿にもどすために試験場が協力し、栽培農家を募り、行政や地元の商工会、旅館組合などが連携して、地元の文化としての品種を復活させる取り組みだ。

 市場やスーパーも、在来種や地方野菜に注目し始めた。長野市にある大手の卸会社・長印では一昨年から、「昔の美味しい野菜シリーズ」という企画提案を、全農長野県本部と量販店側に行なっている。県内各地の地方野菜を探し、その食べ方や料理法も紹介しながら復活させたいという。そして県内のある地域に特有の野菜はその地域のお店で、県内である程度共通につくられてきた野菜は県内全域でと、二段がまえの販売作戦を考えている。「昔の野菜はうまかった」「あんな野菜がまた食べたいな」と、職場の仲間どうし酒を飲みながら話していたのがきっかけだったという。(180ページ)

 大阪市東部中央市場の「東果大阪株式会社」では、子会社として「一品一会」を設立した。インターネットとカタログを通じて、日本各地で代々受け継がれている伝統野菜を消費者に紹介していくという。「一つの野菜を通じ、その野菜が育った地域のこと、育つ季節のこと、そしてその野菜を作った人の気持ちと出会っていただきたい」。そんな思いから「一品一会(いっぴんいちえ)」と名づけられた(184ページ)。

 全国各地に残る個性的な地方野菜600余種を紹介した『都道府県別 地方野菜大全』(農文協刊 6300円)も、大変よく売れている。

 少品目・大量生産から多品目・少量生産へ、そんな時代の変わり目のなかで見直される地方野菜、その価値について、考えてみよう。

農家と品種の「共進化」が、在来種をつくった

 生物の世界に「共進化」という言葉がある。象徴的な例としてよくあげられるのは、次のようなランと昆虫の話である。マダガスカル島に、白い花に長さ30cmに及ぶ細長い蜜の袋をもつ奇妙なランが自生している。この花のことを知ったダーウィンは「この花を受粉させることができる長い口吻をもった昆虫がいるはずだ」と予言した。やがて予言どおり、口吻が30cmに及ぶスズメガがみつかり、キサントパン・スズメガ(キサントパンとは「予言された」の意味)と名づけられた。長い時間のなかで、ランとスズメガが共に進化し、互いになくてはならない関係がつくられたのである。生物の世界では長い年月の中で、生物どうしがその地で生きていくために、お互いがお互いの能力に磨きをかけて、生き残りを図っていくしくみが働いている。

 人間と作物も「共進化」してきたとみることができる。その過程で多様な品種が生まれたのである。イネも小麦もトマトもリンゴも、作物として世界各地に広がるなかで、各地でその風土にあった品種が生まれた。作物は、人間とのかかわりあいのなかで品種を多様にし、種として繁殖する道を歩んできたのである。「進化」とは、皆が同じようになるのとは逆に、多様化・地域化するということである。 

 在来種・地方野菜にみられる、驚くほどの品種の多様性は、作物と人間が「共進化」してきたことの現れである。その担い手は農家だった。農家がかかわってタネからタネへと生命が受け継がれていく。「農家の心を映しながら」生命が再生産されていく。

 そうした「タネ」は、もともと「固定種」のことであった。固定種は、何世代もかけて選抜が行なわれ遺伝的に安定した品種で、自家採種によって同じようなタネを増やすことができる。それぞれの地域、農家で自家採種が続けられた結果、在来種・地方野菜がつくられてきたのである。 

 これに対し、今、広くつくられているF1品種は、雑種第一代の品種のこと。形質のちがう品種(固定種)を交雑させると、一代目は優性形質だけが現れる(雑種強勢)というメンデルの法則を利用して、高収量や均一性など、好ましい性質を持った品種をつくるのである。遺伝的に固定されておらず、二世代目は隠れていた劣性形質も現れ、バラバラになる。だから、F1品種そのものを、農家が次代につなげることはできない。F1品種によって農家と品種との直接的な「共進化」の関係は断ち切られる。

 といって、F1品種がダメで、在来種がいいというつもりはない。従来の大量生産・大量販売という「大きい流通」では、つくりやすく、収量が多く、よく揃い、流通上のロスがでにくいF1品種が便利だ。これに対し、朝市・産直という「小さい流通」なら、地方品種が生きてくる。その地の味をみんなにおすそわけするという、個性の豊かさが身上になるからだ。朝市や都会にでた地域出身の人たちに「地域の味」を届ける、それには、地域の品種がふさわしい。

 もっとも、最近では、F1品種も、ずいぶん多様になっている。「小さい流通」が広がるなかで、際立った特徴をもつ品種や変わりもの品種への関心が高まっているのである。つくって楽しい、食べておいしい、お客さんにも喜ばれる…今月号でも、そんな品種をたくさん紹介した。

 朝市・産直のなかで品種選びの自由が格段に拡大し、品種選択の楽しさが大きくなった。これに「品種をつくる」楽しさが加われば、朝市・産直の世界はさらに豊かになる。

人・畑・作物、それぞれの都合が折り合って

 地域の多様な在来種は、作物と農家と、地域自然とが一緒になってつくられてきた。生物としてその地に生きようとする作物と、それを生かして生存と楽しみを得ようとする農家と、そして受粉を助ける風や昆虫を含む地域の自然とが、時間をかけながら共同していく。その結果、それぞれの地域に、その地域固有の品種がつくられた。農家の「タネ採り」によってである。

 タネ採りは、わが村に、わが畑に種をなじませる過程であり、そこには、夏に食べるダイコンがほしいとか、冬の青物にとか、ソバにあう辛みの強いものがほしいといった食べる側の都合と同時に、その地で安心してつくれるという強みも求める。人の都合と、畑の都合、作物の都合の折り合いをつける。自家採種は、わが家のタネとして、その品種固有の血を濃くしていくことではあったが、時には姿・形が多少ちがう株や、他の農家から譲りうけた株も混ぜて交雑させたりした。

 冒頭で紹介した岩崎さんも、こんな経験をしている。

 「私が自家採種を始めて間もない頃、形の美しい特定の姿の五寸ニンジンばかり選んでタネを採っていたら、だんだんにタネが採れなくなるという経験をしました。採れたタネを播いても発芽が悪く、生育も貧弱になってしまったのです。ところが、女性的な美しい五寸ニンジンの母本を揃えた中に、男性的なゴツゴツした感じのニンジンを少し混ぜてタネを採ると、生命力が甦ってきました。このときの経験から私は、固定種のタネ採りでは多様性を大事にしたほうがいいことを学びました」

 農家の、地域の「固定種」には“雑然性”が含まれている。F1品種はふつう、特定の形質を求めて極度に純粋性を高めた固定種どうしの交配でつくられ、こうして「優秀な」品種が作出されるが、農家のタネ採りは、全体として品種の雑然性を維持しながら、品種自身の可変性に依拠して、自分の品種をつくっていくやり方だ。

 今、岩崎さんは、こぼれダネによる野菜のタネ採りを増やしている。肥料分のないやせた土地、不耕起地、自然の土手…こういう厳しい条件にこぼれ落ちたタネは生命力が強く、発芽が良く、病気や寒さにも強い、という。こぼれダネから育った野菜を選抜して、もう10年以上つくり続けている品種もある。「こぼれダネからの選抜、タネ採りは、農家だからできる、農家らしいタネの採り方だ」と、岩崎さんはいう。自分の土地条件や栽培法に合うように、タネの能力を引き出し、磨きをかけていくことができるのも、農家のタネ採りの魅力だ。

品種で、農村空間の豊かさを届ける

 農家がタネを採るとき、「食べ方」を思い浮かべる。品種は「食べ方」とともにある。地域の品種と地域の食文化は切っても切れない関係にある。

 ダイコンでいえば、生食、タクアン、切干しなど、用途にあった品種が各地にたくさんつくられた。

 現在の青首ダイコンのもとになっている「宮重大根」。この発祥地といわれる愛知県・春日村宮重の「宮重大根」には、五日市場、氏永、明治、蜂須賀、小日比野、西成、下津、九日市場、三井など部落名がつけられ、生食、切干し、漬物など用途別に多少形状が異なる系統があったという。切干しにも、せん切干し、割干し、長割干し、花丸切干しなどの芸の細かさがあった。(農文協刊『日本の食生活全集』・「愛知の食事」より)。品種にあった調理・加工の工夫と、調理・加工にあった品種つくりと、その両方が重なりあって調理・加工も品種も多様化したのである。

 ダイコンの話をもうひとつ。山形県長井市の遠藤孝太郎さんは、「花作大根」と呼ばれる在来のダイコンの復活作戦に取り組んでいる。この品種をただ一人守り続けてきた農家・横澤芳一さんによると、「堅い」「苦い」「穫れない」の三重苦だという。そんなダイコンを昔の人はなぜつくってきたのだろう。

 「煮物にしたって相当な苦みがあるはずだ。そんなくせの強いダイコンを、よそから嫁いできた人が“旨い”と感じるようになったとき、花作の人として認められたようである」と遠藤さんは書いている。

 そんな花作大根だが、唯一その存在価値を見せつける調理法がある。漬物だ。

 「その締まった身のために、漬け込んでから半年ほど経過したときが食べ頃となるのである。今は保存料のおかげで漬物が一年中食べられるようになったが、昔は秋に漬け込んだものは気温が高くなる春先には食べられなくなってしまう。そこで花作大根が、その存在意義を発揮したのである。農家が一番忙しい田植えの時期に、貴重な食材として重宝されていた」(147ページ)。

 食べ方の工夫こそ、「共進化」仲間として農家が品種へおくるエールなのである。

 絶滅しそうな希少種を守るというだけでは、品種は守れない。地域自然と農家の技術と食べ方の総体の表現が在来種なのであり、在来種の価値は、地域での自然と人間のつながりを見直しとりもどす架け橋になることにある。

 品種に物語を込めてアピールしよう。そんな楽しさをモンサント社の品種に、求めることは難しい。

 今、品種の個性で「食文化」を届ける時代である。

(農文協論説委員会)

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