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農文協トップ主張 2007年9月号

「消費者」から「当事者」へ
農村から都市への働きかけ―その新しい段階

目次
◆とことん受動化される「観客」
◆受動的生産者から「当事者」へ
◆受動的消費者から「当事者」へ
◆経済財政諮問会議が騙る「消費者利益」
◆新自由主義経済学の人間観
◆食は消費ではなく、創造的行為

とことん受動化される「観客」

 この号が出るころには結果が明らかになっているが、参議院議員選挙が近づいている。五月上旬、「農業をやめたい人は自民党、農業をまもりたい人は民主党」というチラシを民主党が全国農村に100万部ばらまけば、それに対抗して自民党も「デタラメな民主党農政! 自民党農政なら大丈夫」というチラシを同じく100万部まいたという。

 どちらがより「都市型政党」であるかを競ったこれまでの選挙と違って、どちらがより農業・農村を守るのかが争点(のひとつ)になっている点は、好ましいといえば好ましいが、これについてたとえば「日本経済新聞」の7月15日付社説「農業票ではなく農業再生を競え」は民主党の「個別所得補償制度」と自民党の「担い手の育成による強い農業の育成」を比較しながら、次のように述べている。

 「両党の狙いは明白である。民主党は自民党の伝統的な支持基盤である農業票の切り崩しを図り、自民党は票田を必死で守ろうとしている。(略)だが、いま問われるべきは農業票の行方ではないはずだ。日本の農業は存亡の危機に直面している。その厳しい現実を、今回の参院選を機に直視すべきではないか。農業再生こそ国政の焦点のひとつである。(略)農政は農家のためだけのものではない。都市住民を含む国民全体の生活に直結し、将来の安全保障にもかかわる政策分野である。市場開放による価格低下は消費者の恩恵となるが、農業の体質強化や自給率向上との両立は、簡単には解けないパズルだ。難しい改革を果たすには強力な政治指導力が欠かせない」

 農業をめぐって激しく対立する(かのようにみえる)民主党と自民党、その中間的な立場で「解説」するマス・メディア。私たちの「選択」は、そのどちらかに「一票」を投じることしかないように感じさせる。

 ところで、先月号の「主張」でもふれたように、南米ではこのところ、脱米・オルターグローバリズムの政権が誕生している。その原動力である南米の社会運動の動向を伝える『闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』(廣瀬純、人文書院)という本に、こんな一節がある。

 「政治経済エリートたちは、マス・メディアと結託して、『劇場』をできるだけ大きくすることを企てる。(略)彼らは、自分たちだけで『舞台』を独占し、ぼくたちを『観客席』に追いやろうと企てる。『アクターはおれたちだけだ。お前たちはオーディエンスに過ぎない。舞台に上がってくるな』。こうして、彼らはぼくたちをとことんまで受動化させようとするのである」

 「マス・メディアが、すべての政治的な出来事をエリートたちのあいだのコンフリクト(対立・衝突)という偽の表象のもとに語り伝え、また、それによって、ぼくたちをたんなる『観客』の立場へ押しやろうとすることは、実のところ、当のエリートたちがまさに望んでいることそのものです。エリートたちの掛け金は、つねに、自分たちだけで『政治の舞台』を独占し、他の者たちをできるだけ『観客席』に留まらせることにあります。(略)この意味で、どんなに激しく対立しているように見えたとしても、両者のあいだにはより深いレヴェルにおいてひとつの密やかな合意があると言えるのです」(同上)

 著者の廣瀬氏は、民衆が政治を取り戻すためには、エリートの独占を利するジャーナリズムに代わる新たなジャーナリズムを創造するとともに、すべての住民の顔が見えるような範囲での共同体で、ひとりひとりが行動する存在(「経験的存在」)であると同時に、行動する自分自身をつねに見ている存在(「超越論的存在」)でなければならないと述べている。ひとりひとりは「アクター」(行動者=俳優)であると同時に、自分自身の「観客」(オーディエンス)でもあるというわけだ。

受動的生産者から「当事者」へ

 今月号の巻頭特集は「直売所名人になる」。この中で、福島県郡山市の直売農家・鈴木光一さんがつぎのように語っている(60ページ)。

 「いちばん言いたいのはですねえ、直売の場で自分を出してほしいってこと。商品を通して『自分』というものを出すために直売してるんじゃないかと思うんです。農業って何のためにやってるのかっていえば、俺、自分を表現するためだと思うんですよ。つくる人は一人一人違う。土地も一人一人違う。自然条件も一人一人違う。そういう中で、何をつくろうかなって考えて、自分でタネを播いて、自分なりの育て方して、収穫して、そして売る。農産物は一人一人の作品ですよ。ところが市場や農協一元出荷は、ようするに『みんな同じように出してくれ』っていう流通なんですよね。画一化されたほうがいい。個性がないほうが売りやすい。違いをなくしてなるべく似たものをつくることが『いいこと』だった。そこが直売所は違うんです。自分ブランド。自分を出したほうが売れる。出さないとあまり売れない。一人一人の作品をよりアピールしながら売ることが求められるんです。もともと多様である農業の、その多様性の発表会みたいなもんですね、直売所は。だからこそ魅力がある。いまの時代に求められている」

 「もともと多様な農業の、その多様性の発表会」の会場である直売所は、廣瀬氏流に言い換えるなら、小さな劇場・舞台であり、そこでの生産者はひとりひとりをアピールする俳優であると同時に観客でもあるということになろう。

 1980年代後半から90年代にかけて、全国の農村女性・高齢者が立ち上げた直売所。その大きな特徴のひとつは、生産者が、自分がつくったものの値段を自分で決めて売ることのできる「当事者」になったということである。

 本誌7月号「主張」――「あなたの地域でも『米プロジェクト』を!」で紹介し、「増刊現代農業」では『脱・格差社会』(2月号)、『農的共生社会』(5月号)、そして『いま、米と田んぼが面白い』(8月号)と、みたび紹介してきた宮城県大崎市旧鳴子町の「鳴子の米プロジェクト」。そこでは生産者(つくり手)だけが「当事者」となるのではなく、消費者(食べ手)もまた値段を決める「当事者」となる。

 「鳴子の米プロジェクト」の総合プロデューサーである結城登美雄氏は、『いま、米と田んぼが面白い』巻頭の記事「国家のために米はつくらず、食の未来を国にゆだねず」でつぎのように述べている。

 「それは、低迷する米価と小農を切り捨てる農政に抗して、国に頼らず、食べ手とつくり手が直接支え合う、古くて新しい試みである。まずは何よりも農家が安心して意欲を失わないで米づくりができるように、現状の生産者米価1万3000円を1万8000円に引き上げ、これを5年間保証する。そして食べ手はこれを2万4000円で買い支えるという市場原理とは正反対の活動である」

 プロジェクトでは、食べ手が支払う2万4000円と、つくり手が手にする1万8000円との差額6000円は、諸経費のほか、農業を志す研修生の受け入れや、「鳴子の器」づくり、くず米をつかったパンやお菓子の開発、酒の試作、「鳴子の米通信」の発行など、米にまつわるたくさんの「小さな仕事」の開発に充てる。プロジェクトは、差額6000円を財源とするいわば「自主農政」であり、2万4000円・1万8000円は、そのための食べ手・つくり手がともに「当事者」となって決める「希望の米価」なのだ。

受動的消費者から「当事者」へ

 2年目に入った「鳴子の米プロジェクト」の今年の田植えについて、結城氏はこう報告する。

 「5月下旬、鳴子町の山間地の田んぼでは昨年の10倍の面積(3ha)の田んぼで『東北181号』の田植えが行なわれた。育てる農家も7倍の21の農家に増えている。それだけではない。旅館のご主人やおかみさん、遠くで米の予約をしてくれたたくさんの人びとが田植え作業に参加した。まだまだ水は冷たく小さな田んぼではあるが、『これが私の田んぼ』とでもいうかのように、みんなが嬉しそうに苗を植えていた。もう誰もが、たんなる米の消費者ではなかった。私の米、私のごはん、私の田んぼ、私の農業になっているように感じられた」

 「鳴子の米プロジェクト会議」を構成するのは約20名。そこには農家、JA、加工・直売所グループの女性だけではなく、鳴子温泉郷観光協会、温泉旅館組合、こけし工人のメンバーも加わる。田植えにはそうしたメンバーもともに参加、みんなが「地域の米」「地域の田んぼ」を守り育てる「当事者」になったのである。

 観光協会や旅館組合からの参加メンバーは、プロジェクトについて口々にこう語る。

 「この新しいお米は、まずは宴会のあとのおむすび用として使っていこうかと考えています。地域で力を合わせた『鳴子の米プロジェクト』や、地元の熱意で栽培が可能になったことなどストーリーがあるからこそ、このお米が生きてくるんです」(鳴子観光ホテル 大沼眞治さん)

 「観光案内所にいますので、駅を降りたお客様から『鳴子の名物は何ですか? どこで食べられますか?』と聞かれることが多いんです。『鳴子の米プロジェクト』をきっかけに、鳴子の名物や食文化が豊かになったら、すばらしいと思います。同じ旧鳴子町にいても、今までお話したことのなかった方々と親しくなったことも、このプロジェクトに関わって得た大きな収穫でした」(鳴子温泉旅館組合事務局 高橋貴美子さん)

 「『東北181号』はおむすび用に60kg予約しました。地元のお祭りのお手伝いで焼きおにぎりをつくったところ好評だったものですから、これからは宴会などのお客様にもお出ししようと思っています。試食会では、お母さんたちグループの方々が白い割烹着で働いている姿がかいま見えて、あたたかい気持ちになりました。うちは昔からの湯治宿で農家のお客様も多いんです。農業が明るくなるように応援したいと思います」(勘七湯 高橋美由紀さん)

 60kg2万4000円という価格についてはどうだろう。

 「価格ですか? 高すぎるということはないのではないでしょうか。お客様もその土地ならではのものを求めています。地域性を大切にすることがこれからの観光のあり方だと思っています」(ホテルオニコウベ 坂地一昭さん)

 鳴子の観光に携わる人びとは、「高すぎるということはない」「正直、ちょっと価格的には厳しい」と言いながらも、ただ安い米を求める「受動的消費者」としてではなく、ともに地域に生きる「当事者」として「鳴子の米」「鳴子の田んぼ」に取り組み、そこから新しい観光の可能性が開けてくることも、この一年で感じ取ったのだ(本号336ページのもうひとつの特集「農業参入企業は何を考えているのか」の人びとも、「株式会社」一般ではなく、ともに地域に生きる当事者として、農業を、農村を語っている)。

経済財政諮問会議が騙る「消費者利益」

 先の「日本経済新聞」の社説は「市場開放による価格低下は消費者の恩恵となる」としていたが、七月号「主張」に続き、8月号「『EPAの加速、農業改革の強化』を国民的・世界的に批判する」でも取り上げた「経済財政諮問会議」(議長・安倍晋三首相)のEPA・農業ワーキンググループ報告も「消費者利益」を前面に掲げている。

 たとえば、国境措置を撤廃すると、国内農業生産の減少が約3兆6000億円にのぼるとする農水省試算に対して、ワーキンググループの木村福成メンバー(慶應義塾大学教授)は第四回会議で、こう述べている。

 「こういう数字(農水省試算)をいろいろな方に見せ、だから日本の農業を守るために絶対に国境措置が必要なのだと、テクニカルな計算を普段なさっていない方に言うのは、ミスリーディングなインフォメーションを流しているのではないか。(略)。ここで損害が出ると言っている部分のほとんどは、それ以上に実は消費者が負担しているというところを忘れないで議論しなければ、話が曲がっていってしまうのではないか」

 国境措置の撤廃によって農業がこうむる3兆6000億円の損失は、現在、国境措置があることによって消費者が負担しているのであり、撤廃されれば、その分、消費者がトクをする、という意見である。いかにも「消費者」の利益を重視しているように聞こえるが、同じ第四回会議の終盤、同ワーキンググループ主査でもある浦田秀次郎メンバー(早稲田大学教授)は、つぎのように述べている。

 「最近、所得格差の問題が非常に注目を浴びている。所得が少ない、ワーキングプア、そういう人たちの存在もニュース等で取り上げられている。そういう意味で食料品はベーシックなニーズである。多くの人にとってみれば食料品に対する支出、つまりエンゲル係数はかなり低いのかもしれないが、所得格差の問題を考えると、食料品の価格が下がればそれでメリットを受ける人はかなり多いと思う。その点を考えると、やはり消費者のメリット、利益を考慮しなければいけないと思う」

 彼らは「消費者利益」を掲げつつも、所得格差問題、ワーキングプア問題をどう解決するのかではなく、問題の存在はそのままに、ただ「食料品の価格が下がればメリットを受けられる」としているのである。

新自由主義経済学の人間観

 20年前、農文協が当時の「前川レポート」をはじめとする「農業バッシング」に抗して刊行した『食糧・農業問題全集』のうちの一巻『地域資源の国民的利用』で、故・永田恵十郎名古屋大学教授は、「新保守経済学」(今日でいう「新自由主義経済学」と同義)がはらむ危険性をつぎのように指摘していた。

 「『新保守経済学』の特徴は、市場メカニズムだけを信仰し、かつ人間を経済的利益のみを追求する経済動物としてだけ考える人間性不在の論理に立脚しているところにある、と考えてよいだろう。経済学の病理現象といわれるゆえんである」

 このことは経済財政諮問会議やEPA・農業ワーキンググループの全体に共通する人間観である。生活者を「消費者」=「ただ消費する人」に還元し、市場メカニズムの単なる受容者に仕立て上げ、それが求める経済性に食料を対応させ、農家・農業を市場原理・経済合理主義に従属させる。農家もまた「経済的利益のみを追求する経済動物」としか見ない。「零細農家」が低米価でコスト割れしても田んぼをつくり続けるのは、家族や友人や隣人のためにつくり続けているのではなく、転用益期待のエゴイズムである、と決めつける。

 「農家はトータルで考えたらメリットがあるから米づくりをやっている。直接的なコストだけではなく、例えば転用期待だったり、税制だったりする。農家はばかではないので、長期間にわたって赤字の経営をやっているわけではなく、米づくりは赤字だが、他ではメリットがあるから続けていく」(東京大学教授・本間正義メンバー)

食は消費ではなく、創造的行為

 千葉県鴨川市の農事組合法人「鴨川自然王国」では、年4回、2泊3日の「里山帰農塾」が開かれ、その「同窓生」はこの7月で20期、約200名に達する。

 昨年11月の帰農塾に大阪から参加した関西学院大学四年(当時)の青野遙さんから、帰農塾修了後、しばらくたって、こんなメールが届けられた。

 「鴨川から帰ってきてから、自分の今までの生活がすべて消費で成り立っていたことに気づき、大きな変化がありました。考えてみれば食べることというのはすばらしい創造行為であるのに、都会の中で生活していると食べる=消費になりがちです。今まで忙しいことを理由にあまり料理をしなかった私が毎日自炊。今年はおせちまでつくろうとしているなんて、鴨川効果は予想以上のものになりそうです」

 「消費者」が大量に生まれたのは大量生産・大量消費の時代になってからである。それ以前、都市に住む人々も食事をつくり暮らしを創造していた。「消費者」が「消費者」のままでは、ますます市場主義・グローバリズムに巻き込まれてしまう。自らの食と身体の当事者性さえ奪われる。

 農業は暮らしを創造する営みである。農村空間から都市への働きかけの新しい段階、それは、ともに地域に、日本に、地球に生きる「当事者」として、「暮らしの創造」を取り戻すことではないだろうか。

(農文協論説委員会)

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