農文協:大絵馬ものがたり(全5巻)

推薦します

貴重な歴史資料であり、後世に伝えなければならない文化遺産

武蔵野美術大学名誉教授(民俗学) 田村善次郎

 江戸時代、往診するふりをして薬箱をもって出かけ、社寺の絵馬堂などで暇つぶしをして帰るはやらない医者を絵馬医者といったという。大絵馬の懸けられた絵馬堂などは、今の美術館的な役割をもっていたことを物語っている。絵馬はさまざまな祈りや願いを込めて、また祈願成就の御礼としてカミに奉納されるものであり、人に見せることを第一義としたものではないけれども、絵馬堂などに掲げられている大絵馬は絵師の手になるものが殆どで、カミだけではなく人に見せることをも強く意識しているようである。

 本巻、『稲作の四季』では水田稲作を主として展開する農作業の一年をパノラマ風に描いた大絵馬、四季耕作図を中心に、明治の地租改正のため行われた実地測量記念の絵馬、馬耕講習会の記念絵馬などによって構成されている。全体図だけでなく細部が分かるように主要部分を抜き出しているのは有難いし、簡潔だが要を得た解説と挿入された著者撮影の関連写真が読者の大絵馬の解読に大きな手がかりとなるのも嬉しい。いずれの大絵馬にも豊年満作、五穀豊穣を祈り、幸せを願う農民の切ない心情がその底に流れているのを読み取ることができる。

昭和30年代以降、急速に進んだ農業の機械化、農薬の普及によって日本の稲作は、その様相を一変した。現在の農村や農作業の中から、千年以上にわたる努力の積み重ねの中で作り上げられ、伝えられてきた日本稲作文化の伝統を読み取ることはきわめて難しくなっているのだが、本巻に収録した四季耕作図を中心とする大絵馬は、近代化の名の下に消えた伝統的な稲作、農業、農村の姿をビジュアルに伝えてくれる。まことに貴重な歴史資料であり、後世に伝えなければならない文化遺産の一つである。


この豊かな鉱脈

作家・書誌学者 林 望

 歴史というものは、なにか異常な特別の事の累積ではない。それどころか、まったくふつうの暮らしの、無名の営みの、厖大な事どもの集積こそが、その本来の意味での歴史なのであって、いわゆる歴史的事件というのは、そこから惹起された一つの結果に過ぎない。そういう意味で、いかにしてこの「ふつうの人々のふつうの暮らし」を、具体的に詳細に把握するかということに、歴史研究の基底がおかれなくてはならない。

 ここに、「大絵馬」というものに着目して、そこに描かれた驚くほど豊かな常民の生活データを、須藤功氏らしい徹底的な調査と、丹念な撮影、そしてただ撮影しただけでなく「何が何であるのか」ということを、他の文献や、またこれまでに氏の手で集積した写真資料なども援用しつつ、着実に考証を加えるという手法で明らかにしたのが本書である。

 ああ、ここにこんなに豊かな鉱脈があったのかと驚かされる。しかもそれを南は琉球から北は北海道の網走まで、時代は江戸時代初期から大正に至るまで(絵馬というものの性格上、風雨に晒されて傷みやすいので、多くは明治期のものであるが)、丹念に博捜されているその努力と炯眼は、まことに敬服の至りである。

 これによって、私たちの祖先が、実際にどういう暮らしをして、どんな生活意識を持っていたのかを知ることこそが、たとえば文学研究についても最も大切な基礎である。どんな高等なる理論よりも、一つ一つの「事実」を知ること。昔風にいうならば、格物致知とでもいうべきことの大切さを、いま私は本書を前に再確認し、一人でも多くの人々にこの大切さと、汲めども尽きせぬ面白さを知って欲しいと念願してやまない。


深く豊かな思い、願い、そして祈りへ

埼玉医科大学病院臨床心理士、文教大学非常勤講師 萩原裕子

 長い人生を歩まれてきた高齢者の方から、回想法を通してご自身の人生についての語りを聴かせていただくと、その話の豊かさに驚かされる。ほとんどの方が「特別なことは何もない、普通の一生だった」と振り返られるが、そこにはお一人お一人の特別な思いが込められている。ふるさとへ、子どもへ、仕事へ、ものへ…、このような深く豊かな思いがあるからこそ、その一生は色鮮やかな色彩を帯び、私たちの心を動かすのである。このような思いは、時には祈りとなり、語られることもある。現在よりも、人が命を全うすることがたやすくなかった時代、人々が自然とより近い距離で生きていた時代には、人々の思いは願いとなり、祈りとなって神に向けられたのだろう。

 この『大絵馬ものがたり』の第三巻『祈りの心』には、このような『祈り』をテーマに、子どもの成長、学業成就、亡くした子の冥福などを祈願した絵馬で構成されている。須藤功氏は、絵馬の美しい写真に加え、膨大な写真資料と圧倒的な知識を駆使しながら、それぞれの絵馬に丁寧な解説を施している。絵馬についてはもちろん、当時の歴史・文化的背景まで知ることができるので、理解が一層深められ、大人だけでなく、子どもも含めた幅広い年代の人々が親しむことができる。

 この『祈りの心』に限らず、すべての氏の著作に通底しているものは、氏の人間に対する温かいまなざし、愛なのではないだろうか。それも、何か大きなことを成し遂げた人にのみ向けたものではない。日々の何げない暮らしを積み重ね、ささやかな、しかし堅実な人生を送った市井の人々へ向けたものである。このような氏の思いがあるからこそ、本書も人々の心を動かす、貴重なものとなっている。


矢田部正巳

永遠に伝えてゆきたい「祈りの結晶」

神社本庁 総長 矢田部正巳

 古代の人々が、様々な祈りや願いをこめて神様に献上していた生馬は、やがて、馬を象った土馬、絵馬へと変化していったといわれる。絵馬に描かれる絵も、馬のみならず、人々の祈りとともに多様化して今日に至っている。従って絵馬に描かれた画題の中から、当時の日本人の祈りや生活の様子を見出すことが出来る貴重な歴史資料としての性格を有している。

 神仏への祈りを託された絵馬は、本来、永い歳月を社寺の拝殿等で過ごすことから、風雨により顔料が剥離することも多く、その容姿の一部を失う運命にあることは言うまでもない。しかしながら時の経過に晒されたその姿の中に、時として、往時の私達先祖の願いを感じ取ることが出来る。絵馬は、平穏な日々の永久と日常生活の安寧を願う心が、実際に形となって現われた「祈りの結晶」とも言うべきものである。

 この『大絵馬ものがたり』全五巻は、絵馬を扱った書籍としては画期的なものであり、全国津々浦々の社寺に現存する絵馬を画題ごとに分類し、全体像はもとより、細部にまで着眼し、詳細な解説を付した後世に遺すに相応しい資料集大成の書である。

 本書の刊行を企画戴いた社団法人農山漁村文化協会、そして長年、直向に全国各地の絵馬を調査され、尽力戴いた著者の須藤功氏に心から敬意を表し、本書推薦の辞とさせて戴く。