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農文協トップ主張 1995年3月号
21世紀は自給〈ケイパビリティ〉の時代
生活者=生産する消費者の視点で
自然と人間の矛盾を克服する


 本誌昨年1月号主張は「21世紀は『小さい農業』の時代―世界が日本農業の生産革命に期待する」であった。そして、本年1月号の主張は「21世紀は生活者の時代―『企業者の時代』から『生活者の時代』へ」であった。 来たるべき世紀を迎える視点として、ここでさらに「21世紀は自給〈ケイパビリティ〉の時代」という視点をつけ加えたい。
 なぜなら、その「自給〈ケイパビリティ〉」の論理は、「小さい農業」の論理と「生活者」の論理をつなぐ論理であり、農業・農村が、21世紀において商工業や都市をも含む社会のあり方全体を導いていくための論理だからである。

◆ワラと自給〈ケイパビリティ〉

 いまどき「自給」などと言うと、「自給自足」という言葉から連想されるような、消極的・停滞的なイメージを思い浮べる方が多いかもしれないが、ここで言う「自給」は、21世紀人類の「自由」にかかわる問題である。
 その「自給」の概念は、アマルティア・センというイギリスの経済学者が、経済合理主義にもとづく経済成長率やGNPなどといった20世紀人類を「支配」してきた価値尺度にかえて、21世紀の価値尺度として提唱している「ケイパビリティ」の概念と密接に関連し、重なりあう概念である。ケイパビリティを辞書で引いても、「能力」とか「素質」という訳語しか出て来ないが、経済史家川勝平太氏(早大教授)は、新しい価値尺度としてのセンの「ケイパビリティ」を、「物を必要条件としつつ、これを生かしていく潜在的・顕在的な主体的能力」あるいは「人間が何かをする自由、何かになりうる自由」のことであり、言い換えると、その能力や自由が生かされて実現される「生活水準の基準」だと解説している(参考文献:NHKブックス『日本文明と近代西洋』)。
 その「自給〈ケイパビリティ〉」の概念は、農家が、地域の自然や産物と向き合い、それを活かそうとするときの発想や方法そのものの中にみることができる。
 たとえば、1984年の本誌の連載記事「油のいらないハウス栽培」にご登場いただいた福岡県朝倉町の丸林幸夫さんのワラの活用法がそれだ。

◆ワラのもつすべての力を活かすことが
栽培を「ラク」にし、土をよくする

 当時、2重カーテンのパイプハウス540坪でキュウリの無加温・半促成栽培を行なっていた丸林さんは、温床から堆肥まで、4反の田からとれるワラを、足かけ3年、4回にわたって連続的に活用していた。
 まず、新ワラがとれた年の12月上旬には、1月中旬定植のキュウリの踏み込み温床の熱源としてそのワラを使う。温床での育苗が終わっても、踏み込んだワラはまだ発熱の余力があるので、1月の定植の前、ハウスのベッドの下に溝状に埋め込む。そうするとまだ外気温が低い2〜3月ころまでそのワラが発熱するので、地温やハウス内の気温を上げる役割をする。
 その溝状に埋め込んだワラは、6月、キュウリの収穫後に掘り上げ、約半年積んでおき、山土と混ぜ、つぎの作のキュウリの育苗のとき育苗箱や育苗鉢に入れる床土にする。最後にその床土は、定植のとき苗ともどもハウスに持ち込まれるが、そのときは完熟した堆肥と同じ状態になっている。
 つまり丸林さんは、1年のワラを(1)温床の熱源、(2)定植ベッドの熱源、(3)育苗時の床土、(4)完熟堆肥として、足かけ3年、4回にわたって活用していた。当時はすでに、ワラを使った踏み込み温床をする人は少なく、果菜の半促成栽培では(1)温床は電熱線、(2)定植ベッドは「ユカロン」などの地中暖房、(3)床土は購入の促成床土、(4)堆肥もバークなどの購入堆肥、としている人が多かった。そうした中で丸林さんが踏み込み温床を続けていたのは、購入資材にかかるコストを節約しようという理由からではない。自分の田でとれるワラを使った踏み込み温床が、自分の栽培の(1)〜(4)のそれぞれの段階で、購入資材での栽培にはない、つぎのような「ラク」をもたらしてくれるからだった。
 (1)育苗時の温度管理・水管理がラク……ワラに発熱させるためには、水をタップリしみ込ませ、よく踏み込まなければならないが、そのワラが温度も水も供給することになり、育苗箱や鉢の床土が乾燥しにくく、水管理に苦労することがない。温度の確保だけが目的の電熱だと、加温しすぎると乾燥しやすく、温度と水管理のかねあいに苦労することになる。
 (2)定植床でも温度管理・水管理がラク……定植前には、ベッドに生ワラを敷き込み、それとの相乗効果でもあるが、とにかく発熱効果が大きい。地温はワラまかせだからいちいち記録はしていないが、大雪の日に心配になって計ってみたら、地下15mで27度もあった。無加温の丸林さんは、「地温が確保されていれば、気温はある程度さがっても大丈夫ではないか」という考え。加温で、つまり重油をたいて間接的に地温を確保しようとすればロスが大きくなり、地温より気温が相対的に高くなって、地上部優先の生育となり、成り疲れしやすくなる。また、ワラに含まれた水分はワラの発熱によって温められている。「乾燥気味だからといって、厳寒期にベッドの上から冷たい水をかん水するのとでは、相当にちがうのじゃないか」。
 (3)床土にして肥料設計がラク……1月〜6月の間、ハウスでの発熱の役割を終えたワラは掘り上げて11月まで積むが、その間にほぼ完全な腐植となっている。それを床土にすれば、踏み込みのときに発酵促進(つまりは発熱促進)のために添加した油粕、鶏糞などの有機質肥料がよくなじんでいて、あらためて肥料をやる必要はなく、床土の肥料調節に苦労しなくてもよい。
 (4)土つくりがラク……当時はすでに良質堆肥の投入による土つくりの必要性が言われていたが、丸林さんはそれまで堆肥を堆肥としてつくったことは1度もなかった。「土つくりが不要だ」と考えているわけではなく、床土としてハウスに入る腐植状態の土が反当たり4寸ポットで3000株分、つまり確実に年2〜3tの完熟イナワラ堆肥が入っている勘定になるからである。
 以上のように、丸林さんの温床・床土でのワラの生かし方を見ていくと、生ワラの段階から床土の段階まで、未熟・中熟・完熟のすべての発酵、分解の過程でイナワラのもつ熱・水分・養分を生かし尽くしており、それが丸林さんのキュウリ栽培を「ラク」なものにし、またハウスの土をよくすることにつながっていることが分かる。
 丸林さんのワラ活用法を本誌が紹介したのは10年前。その10年ほど前までは、ほとんどの野菜(果菜)農家が「踏み込み温床」で、イナワラや落葉の力を利用していた。さらにもっと以前は、ほとんどの農家がワラを衣食住のあらゆる生活面に活かしていた。「衣」ではワラボウシ、ミノ、ゾウリ、ユキグツ、ワラグツ……、「食」ならツト、ナベシキ、オヒツイレ……、「住」ではワラ屋根、エンザ(座布団)、ワラボウキ……。「ワラ布団」というものもあった。イネの葉をとって、干して、布団に入れる。2カ月か3カ月もすればつぶれて、弾力がなくなってしまう。すると今度は布団から出して、うまやに持って行って、馬や牛の敷き料にする。その敷き料は堆肥となって、土に帰る。
 経済合理主義や市場原理で言えば、ワラは「コメ」という「商品」から切り離された「価値なきもの」。しかし農家はその「価値なき」ワラと向き合い、みずからの生活や生産に役立つ「価値あるもの」に変えてきた。丸林さんは、ワラという有機物(生命)が無機物(非生命)に変わっていくときの発酵・分解過程をつぶさに生かすことで、電熱温床や地中暖房などの「商品」資材利用ではマネのできない、自分とワラとキュウリとハウスの「ラク」な関係をつくってきた。そこでは、農家(丸林さん)という主体から離れればワラという物の価値はない。つまり主体から離れて物の価値があるのではない。一般的・客観的な価値尺度が画一的・数量的にものの価値を決めるのではなく、その物を利用する人間の主体的条件が価値を決めるのである。
 物の価値、あるいは豊かさは、この商品は上等、あるいは下等と、市場原理や経済合理が画1的に決め、それを多く持っているか少なく持っているかで決まるのではなく、物を使う側の主体によって変わる――それが「自給〈ケイパビリティ〉」の考え方である。

◆都市にも広がる
「自給〈ケイパビリティ〉」の論理

 昨年、農文協が発行した本に、食生活研究家・魚柄仁之助さんの『うおつか流台所リストラ術』『うおつか流清貧の食卓』という2冊の生活書がある。それぞれ「ひとりひとつき9000円」「からだによければ地球によい」というサブタイトルがついているが、その内容は、東京・目黒に住む魚柄さんが、自ら実践する「穀物と豆を主に、副食は根菜中心。副食のサポーターは葉もの、海藻、魚貝、果物。肉と油はよりおいしくするために少々」の食生活を公開し(『リストラ術』)、その食生活がなぜ健康や環境にとってよいのかを解説(『清貧の食卓』)したもの。
 この2冊の本が、昨年7月から12月までの約半年で何度も版を重ね、合計約7万部のヒット作となっている。おもに読者層は都市の主婦層なのだが、どういう点がその層に受け入れられているのだろうか?
 『リストラ術』にはこんな一節がある。
 「まず『安い』食材にはどんなものがあるかを整理してみましょう。『安い』ものには見た目の悪いもの、調理法が分かりにくいもの、流通がだぶついて困っているものなどがあります。近年乾物が姿を消しつつあるのは、その使い方を知らない人が多いからじゃないでしょうか? もし漁港近くに住んでいらっしゃるなら、雑魚と呼ばれる小魚も安い食材だし、農村ならば出荷できない傷ついたリンゴや間引きダイコンなど、ただより少し高い程度です。流通が複雑になればなるほど、そのすき間に嫌われものの安い食材がぎっしりです。安い嫌われものの肩を持ち、うまく食べてしまう――これが魚柄流リストラ料理術なのです」
 うっかりすると捨てられそうな安い嫌われものの肩をもつ魚柄さんが、面目を施すのが魚の「あら」を探すとき。今はあらというと、見向きもされずに売れ残るか、せいぜいペットのエサにされるのがオチだが、魚柄さんはひと山いくらのあらから刺身も取る。
  そのあらを探すのに、魚柄さんはスーパーなどの広告チラシをよく見る。
 「『スーパーの広告にあらなんか出てるかな?』――当然の疑問です。そんなスーパーは皆無でしょう。しかし『銀ダラ切り身200円!』の広告ならしょっちゅう見るでしょう。私はその裏を読むのです。何も紙を裏にするのではなく、『これだけ仕入れたとすると、あらがダブついているはずだ!』と嬉々としてスーパーに向かうのです」
 その魚柄さんの本に寄せられる読者の感想を見ていると、いま都会の消費者の中にも、値段や規格や等級などの、市場原理による画一的な価値尺度ではなく、1人1人の生活者としての価値観で、自分と食べものとの関係を高めたいという人がふえていることがよく分かる。
 「食費の多いわりにはなんだか貧しいわが家のメニュー。ガクゼンとしました。いかに知恵と工夫が大切か、魚柄氏はサラリーマン家庭の心強い味方です」(主婦・36歳)。「いろいろな自然食の本を読んだ私でも、魚柄さんの考え方は理にかなった今の時代にあった食生活だと思い、ファンになりました。有機野菜や自然食品=お金がかかるという構図が当たり前になっている今、目からウロコが落ちるようでした」(女性会社員・31歳)
 さらにはつぎのような感想もある。
 「自然を見つめること、大切にすること、ひいては人はどうあるべきかを考えさせる本」(定年退職者・61歳)。「人間がこの地上で生きるうえで矛盾の生じない生活を、無理強いしないですすめるところに好感が持てます」(主婦・34歳)。「田舎の年寄の1人暮らしなので食事の準備もなんだかおっくうでしたが、この本でなんだか食べることへの元気が湧いてきました」(主婦・73歳)
 こういった感想からうかがえるのは、消費者の中に、食べものの価値を値段で判断したり、「自然食品だから」とラベルで信頼するのではなく、そこにある「物」を享受する生活者としての主体の能力を高めることによって、その「物」の価値を引き出すことに喜びを感じる人々がふえているということである。

◆21世紀の「自由」は
自然と人間の関係における「自由」

 さて、昨年1月号の本誌主張は、「フロンティアなき21世紀、人類が頼るべきものは資本を投じて外へ外へと向かう『大きな農業』ではなくて、資本を節約して有限世界でのリサイクルを行なう『小さい農業』ということになる。それが歴史の必然なのである」と述べた。その「小さい農業」の論理、それは「自給」の論理でもある。「小さい農業」は、外部にフロンティアを求めようとはせず、地域の自然と向き合い、その自然や産物の価値を主体的条件によって引き出すことで永続的な農業を営んできたからである。
 またセンが、「物を必要条件としつつ、これを生かしていく潜在的・顕在的な主体的能力」というときの「物」とは、自然そのもの、また自然を源とするあらゆる生産物のことである。またその「物」を生かすことをとおして得られる「人間が何かをする自由、何かになりうる自由」というときの「自由」は、人間と人間の関係における「自由」ばかりではなく、自然と人間の関係における「自由」という、新しい概念をも含む。自然を人間の意のままに征服することが「自由」なのではない。丸林さんが、自分に合ったやり方で(主体によって)、ワラという「価値なきもの」の価値を引き出し、自分とキュウリとの関係を「ラク」に、つまり「自由」にし、それが「土つくり」を意識せずとも土をもよくしてきたように、主体が自然の循環に入り込んで自然をより豊かにしていく関係でなければ自然と人間の関係における「自由」はありえない。フロンティアなき21世紀には、工業や商業であれ、この論理に立たなければ存続はかなわないのである。「小さい農業」の論理は「自給〈ケイパビリティ〉」の論理であり、「自給」の論理は自然と人間との関係における「自由」の論理である。
 「小さい農業」の論理はまた「生活者」の論理でもある。「生活者」つまり、生産する消費者としての「小さい農家」が、自家産物を食卓にあげるときには、とれたらとれたなりにたくさん食べられるように、とれないならとれないなりに食いのばせるように、知恵と工夫をこらす。それと同じように、魚柄さんは店頭に向き合い、流通がだぶついているものに目を向け、それを自分の食の組み立てに生かそうとする。昨年のコメのように足りなくなれば、糧飯(かてめし)やめん類で食いのばす知恵を発揮する。何もムリヤリ輸入してまで米を食べることはあるまいというわけだ。一見すると「安い」ことにこだわっているようだが、そうではない。「ある」ということにこだわって、それを生かそうというのである。
 丸林さんの「ワラ」と、魚柄さんの「あら」。市場原理では「無価値」か「低価値」だが、どちらも今ここにある「物」であり自然の産物。市場原理を離れてそれらと向き合い、自然の産物としての価値を引き出そうという人間の主体的条件があるとき、フロンティアなき21世紀の、自然と人間の関係における「自由」が見えてくる。
(農文協論説委員会)


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