佐井村福浦地区には、明治時代に伝わり漁師たちによって伝承されてきた福浦歌舞伎がある。不況や戦争、過疎化など度重なる存亡の危機に遭いながら、保存会などの努力によって完成した「歌舞伎の館」を拠点に、上演回数を増やしたり、歌舞伎鑑賞を盛り込んだ過疎ツアーを実施するなど、新たな飛躍を見せている。

● 佐井村 DATA●
 青森県佐井村は、まさかり状の下北半島の刃の部分に位置し、東西14km、南北28kmの細長い村。山が海岸線まで迫り、秘境・仏ヶ浦は訪れる人の心をひきつける。海岸線がおよそ40kmにもおよぶ条件を生かして、ウニ・鮭・ワカメなどの沿岸漁業中心の村。
 江戸時代にはヒバ材の積み出し港、北前船の中継港として栄え、その繁栄と交流を箭根森八幡宮の豪華な山車や各集落の郷土芸能などが今に伝えている。

● 人口
3,207人(平成11年3月現在)
● アクセス
・ 青森港から船で2時間20分
・ むつバスターミナルから下北交通バス(佐井行き)で約2時間
● 問い合わせ先
・ TEL:0175‐38‐4506(佐井村教育委員会)



● 上方の地回り役者が伝えた漁村歌舞伎
 漁師によって伝承されてきた漁村歌舞伎は、全国でも珍しいものです。佐井村で盛んなころは、お盆や正月、祝いの席、シケで漁に出られないときの楽しみとして演じられました。出稼ぎ先でも二人寄れば手踊りが始まったというくらい、歌舞伎はこの地の人々の心身に染み込んだふるさと文化です。
 佐井村は江戸時代には、東北・北海道と京・大阪、江戸を結ぶ北前船の中継地として大いに繁栄しました。そういう土地柄が、上方(京・大阪と江戸を含む)の歌舞伎がこの地に伝わる背景にあったのです。
 記録によれば、明治20(1887)年、上方から地回りの役者、中村菊五郎・菊松夫妻が佐井村矢越地区に来て、冬の楽しみのない漁村の暮らしに接して歌舞伎の指導を始めたといいます。福浦歌舞伎の始まりはその3年後、福浦の住民が中村夫妻に懇願して2年間にわたる指導を受けたことがきっかけでした。


●度重なる存続の危機を乗り越え、県無形文化財に指定される
 そうした福浦歌舞伎も、集団就職や出稼ぎで多くの若者が外に出ていった高度経済成長下、昭和40年代の初めには、演じ手が少なくなって春祭の上演が途絶える寸前まで追い込まれました。そのため、集落で福浦歌舞伎の保全について本格的な検討が加えられ、地域の文化としての意義が住民の中で真剣に話し合われました。その結果、昭和46年に福浦芸能保存会が誕生し、歌舞伎の台本化や、演目の復活にも精力的に取り組み始めました。
 こうした努力が実り飛躍する転機となったのは、福浦歌舞伎の村外へ向けての活動です。北海道・東北ブロック民俗芸能大会に青森代表として参加したり、秋田県民会館で上演するなど評判は上々で、これが人びとの自信につながりました。昭和59年には青森県無形文化財の指定を受け、外での公演も増えています。
 さらに子どもたちへの歌舞伎の伝承にも力を入れ、ほかの地域の子ども歌舞伎との交流・共演が実現するなど、地域を越えた交流につながっています。


●上演拠点が完成し、都市との交流、滞在型観光に欠かせない要素に
 平成11年、国土庁の補助事業「中山間地域国土保全強化総合対策特別事業 交流円滑化推進整備事業」を受けて、200人が観劇できる専用の劇場「歌舞伎の館」が完成しました。これを機に、「福浦の歌舞伎上演実行委員会」が組織され、定期上演が年4回に増やされたほか特別上演の回数も増えて、伝承をさらに確実なものにして外との交流を盛んにしようという機運が盛り上がっています。
 特に、都市との交流・提携、滞在型観光に力を入れている佐井村にとって、福浦歌舞伎は大事な要素となっています。村役場では、青森市内の旅行代理店と提携して、郷土料理を食べながら歌舞伎を鑑賞してもらう「食談義」を盛り込んだツアーを計画し、平成5年から毎年実施しています。
 このように、佐井村は「歌舞伎の館」を拠点に福浦歌舞伎という地域文化を伝承しながら、ほかの地域との交流にも取り組んでいます。